20. 早朝
秘密の研究室にあった資料を車に積み込み終わった頃には、すでに夜が明けていた。思っていたほど多くの資料がなかったのが、良かったのか悪かったのか二人にはなんとも言えない気持ちだった。とにかく、数回の居眠りを除けば24時間起きたままの二人にとっては、資料が少なかったことは良かったのかも知れない。
「それじゃあ、あたくしは帰りますから、あなたは歩いて帰ってくださるかしら」
半分寝ている目でスケアリーは言ったがモオルダアはそうしたくないようだ。
「こんな大事な資料を車に乗せたまま帰るの?これはエフ・ビー・エルで厳重に保管しないとダメだよ」
スケアリーは何か言いたそうだったが、黙ってモオルダアの言うとおりにした。ただし機嫌はもの凄く悪そうだ。
FBLビルディングの地下駐車場に到着するなりスケアリーは車を降りてモオルダアに言った。
「あたくし、ちょっとやることがありますから、先に部屋に戻っていますわね」
やること、というのは多分寝ることだろう。彼女のほとんど閉じている目を見れば解る。トランクのところで資料を取り出していたモオルダアのところへスケアリーが車の鍵を放り投げてきた。モオルダアは「えっ?!」と言ってスケアリーの方を見たが、もうすでにスケアリーはビル内へと続く扉を開けているところだった。
扉が閉まる音がしてモオルダアが一人駐車場に残されると辺りは静まりかえった。一人で持ち出すには少し量が多すぎるトランクの中の資料を見てモオルダアはため息をついていた。そして、これは二度に分けて運ぶしかないと思ったようで、資料の半分だけを両腕で抱えるとアゴやヒジを駆使してトランクを閉めた。それからヒザを曲げて資料を抱えている手に持っている鍵をトランクの鍵穴の高さまで持ってくると、トランクに鍵を掛けた。この時、何度か鍵を入れるのに失敗して鍵穴の周辺に傷を付けてしまったのだが「これはどこかへ行ってしまったスケアリーのせいだ!」と開き直って、恐れることはやめにした。
鍵を掛ける音が地下駐車場に響いて、その後にはまた静寂が訪れた。キモエの屋敷でも、この地下駐車場でも静かすぎる場所に一人でいるというのは、なんとなく気味の悪いものだと、モオルダアは思っていた。
モオルダアが扉の方へ向かって歩き出した時、彼は後ろから呼び止められた。ここにいるのは自分だけだと思っていたモオルダアは抱えていた資料をばらまきそうになってしまうぐらい驚いたのだが、疲労のためかそんな体力も残っていなかったようだ。
モオルダアが振り返ると、そこにはマスクをしてフードを被った女性が立っていた。見た目からはそれが女性であるとは断言出来なかったのだが、その声はしわがれてはいたが女性の声に違いなかったのだ。この容姿を見てモオルダアにはこれがローンガマンのアジトに現れた謎の人物に違いないと解った。
「あなたはキモエさんのお母様ですね?」
モオルダアはいきなり呼び止められて驚いたのを隠すために、妙に落ち着いた口調で言った。言われた相手は少し驚いていたようだったが、静かに頷いた。
「そうです。私はキモエの母です。私は全ての過ちを償うためにここへやって来たのです」
そう言ってキモエの母親はマスクとフードをはずした。その下からは炎で皮膚を焼かれたように赤く爛れた顔が現れた。落ち着いていたフリをしていたモオルダアだったが、予想外に恐ろしいものを見せられて、思わず変な悲鳴をあげた。
「これが私してきた恐ろしい研究の結果なのです。私はその研究に夫を巻き込み、そして娘までも巻き込もうとしていました。でも信じてください。私は真実を知るまでは、全て人類のためだと思ってやってきたのです」
キモエの母親が落ち着いて喋っているので、モオルダアも再び落ち着きを取り戻していた。
「人類のためなら、自分の夫を実験台にするのですか?」
赤く爛れた顔ではほとんど表情とよべるものは感じられなかったのだが、モオルダアの言葉を聞いてキモエの母親の瞳には明らかな動揺が感じられた。
「それは違います。悪いのは彼らなんです。いいえ、もしかすると彼らの言いなりになっていた私の責任かも知れません。夫は私達の研究のことは何も知らないはずだったのです。でもあんな絵を描くからいけないのです。あの恐ろしい絵は私達の研究を知っていたから書いたのか、それとも偶然の一致なのかは解りません。でも、あの絵を描いたことで彼らは夫が研究のことを勘付いたと思ったようです」
「それで、キヨシさんは消されることになったんですね。でもただ殺してしまうのはもったいないから実験台にしたということですね」
ほとんど表情の作れない赤黒い顔の中に輝いているキモエの母親の瞳から涙がこぼれてきた。
「ええ、私は夫を殺しました。しかも二度も。でもそんなことを今話しても意味がありません。それよりも私がここへ来たのは彼らのことをあなたに知らせる義務があると思ったからなんです。彼らのしていることは間違っています。彼らを止められるのはあなたしかいません」
話の展開に盛り上がってモオルダアは鼻息を荒げている。
「というと?」
「地底大戦争が始まるのです。私の研究は地底に潜んでいる敵と戦うために…」
ここでプスッという音と伴にキモエの母親の言葉がとぎれた。
「それで、どうなるんですか?」
モオルダアが聞いてもキモエの母親はなんとも言わない。そしてがくりとヒザをついたかと思うとそのまま倒れてしまった。倒れたキモエの母親の後ろには消音器のついた銃を持つ謎の男が立っていた。謎の男とは、つまりモオルダアからスケアリーのノートパソコンを奪っていった男のことである。
「ああ、なんてことを!」
驚いているモオルダアを謎の男は無表情に睨んでいた。
「モオルダア君。キミが知る必要のないことは知らなくてもいいのだよ」
「あなたは一体誰なんですか?」
「それも知る必要のないことだよ。私は私の信念に従って動くだけだ。だから私はキミが知る必要のあることは教えるし、知る必要のないことは教えないのだよ」
「何を言っているのか良く解りませんが」
「とにかく、早くここを立ち去るんだな。キミに殺人の罪がきせられてもかまわないのならそれでいいのだが」
「殺人って?」
「彼らの力を使えばそれぐらいは簡単だよ。しかし心配することはない、ここは私が全て片付ける。そんな資料はもう意味がないから早く部屋に戻るがいい」
「だって、これは誰にも渡せない重要な資料だから」
「例えその資料が本物であっても彼らはもうすでに手を打っている。もうその資料には意味はないのだよ。キミが戦う相手はキミが思っているよりもずっと巨大なんだ。だが、彼らがキミ達のことを恐れているというのも事実だがね。さあ、解ったらもう行くんだ。場合によってはキミのことも撃たなければいけなくなる」
モオルダアには何がなんだか解らなかったが、殺人の濡れ衣を着せられたり、撃たれたりは嫌なので、立ち去ることにした。念のため資料は持ったまま。しかし、謎の男が資料を要求しないところを考えると、ホントにその資料には意味がなくなったのかも知れない。
モオルダアが扉のところまで行くと、後ろから謎の男がモオルダアを呼び止めた。
「人類の運命はキミが握っているのかもしれないぞ」
謎の男は無表情のまま変な事を言っていた。なんだか意味が解らなかったが、駐車場の入り口の方から車がタイヤをきしませて猛スピードでこちらへ向かってくるのがわかったのでモオルダアは慌ててビルの中へと逃げ込んだ。