「隠れ家」

21. 朝?

 目を覚ましたモオルダアは「あれ?」と思って部屋の中を見回した。寝ている時にはなんとなく自分の部屋にいるような感じだったのだが、彼はペケファイルの部屋の椅子に座ったまま寝ていたようである。時計の針は十時半を指していた。地下にあるこの部屋ではそれが朝なのか夜なのか解らなかったが、モオルダアは自分が起きた時の感覚からしてまだ朝だと解った。

 まるで注いだまま一晩放置されたコーラのような気分だ、とモオルダアは思っていた。どんな気分かは良く解らないのだが、昨日のことが全て夢だったんじゃないかと思えるような、そんな不思議な気分だったようだ。しかし、昨日のことが夢でないことは解る。彼の目の前のパソコンの画面にはタイトルだけ書いてある書きかけの報告書がある。「溶解人間事件に関する報告書」と書いてそのまま寝てしまったのだろう。モオルダアはこれを見て鼻から軽く息をもらすようにして笑うと、そのタイトルを消して「液体人間事件に関する報告書」と書き直した。モオルダアはこれで満足したようだが、どちらにしても変わりはない。

 タイトルだけ書き直したモオルダアだったが、その先を書く気分ではなかった。その前に気になることを色々考え直してみたかったのだ。それに、この部屋に戻ってきた時にはイビキをかいて寝ていたスケアリーがいなくなっているのも多少気にはなっていた。


 地下の駐車場へ来るとスケアリーの車はそこにはなかった。それから、キモエの母親が射殺された跡も見事に消えていた。モオルダアは何もない駐車場の床を見つめながら、キモエにはどこまで説明したらいいのかを考えていた。或いはなにも知らせない方がいいのだろうか。しかし、キモエは少なくとも父親に関することは知りたがるだろう。それを知ったら、当然母親のことも気になるはずである。やはり何も知らせるべきではないのだ。知ればキモエの身も危険になるかも知れないのだし。

 結論が出そうにないことを考えていると遠くから車の近づいてくる音が聞こえてきた。それはモオルダアの近くまで来て止まった。スケアリーの車だった。

「あら、モオルダア。こんなところであたくしをお出迎えですの?」

車から降りてきたスケアリーは冗談っぽく言っていたが、その顔には疲れがハッキリと見て取れた。

「そんなワケじゃないけど。キミは一体どこへ行ってたんだ?」

スケアリーがこの質問に答える前に、助手席のドアが開いてキモエが降りてきた。

「あの、すいません。私どうしてもあのスキヤナーって方が恐ろしくて逃げてきてしまいました。特に何をされたとか、そういうことじゃないんですけど、やっぱり私は…」

スキヤナー副長官と一緒に夜を過ごすという荒療治はやはりキモエには耐えられなかったようだ。モオルダアは黙って頷いた。

「それよりも、モオルダア。あなたはどう思いますの?キモエさんはあのお屋敷に帰りたがっているんですけれど」

こう聞いたスケアリーだったが、本当は彼女だってあの家が危険だと言うことは知っているはずである。ただ、スケアリーもキモエにどこまで話していいのか解らずにうやむやな説明しか出来なかったのだろう。それで、最後はモオルダアにまかせたということなのだろうか。モオルダアはどうして、そんなことを自分に聞くのか?と思ってスケアリーを見ると、彼女は申し訳なさそうな表情をしていた。

「キモエさん。残念ながらあの家は危険だからもう帰れないよ」

モオルダアが思い切ってこう言うのを聞いてキモエは明らかにうろたえていた。

「でも、もう事件は解決したんじゃないんですか?あの怪物は処分されて、それからマサシタはもうすでに死んでいるんでしょ?ドロドロに溶かされて。スケアリーさんがそう言ってましたよ」

スケアリーがそんなことをキモエに話していたとは知らなかった。しかし、キモエがそのことを口に出したので、モオルダアが明らかに矛盾した説明をしてしまうような事態は避けられそうだった。

「それは、そうなんだけど。あの家の敷地内には昔、軍の研究施設があったんだよ。ほら、あのキモエさんの秘密の隠れ家とかそういう場所も関係があるのかも知れないけどね。そこで研究されていた化学兵器に少し問題があってね。それが今でもあの辺りに残されていて、危険なんだよ。キモエさんの屋敷の庭にあった血溜まりのようなものとか、あの怪物とか。おそらく全てが化学兵器に関連していると思うんだ。それから…」

ここまでなんとなく出任せの説明をしてきたモオルダアだったが、ここで言葉が詰まってしまった。真面目にモオルダアの言うことを聞いているキモエを見て、半分嘘の説明をしていることがいたたまれなくなっていたのだ。そして、この先を話すことで、モオルダアは間違いなくキモエを騙すことになるのだ。

 モオルダアが先を続けられなくなるとスケアリーが話し始めた。

「あなたの両親の死因はその化学兵器によるものだったんですのよ。きっとお屋敷のどこかにあった化学兵器の残骸みたいなものをあなたの両親が見つけてしまったのかも知れませんわ。その影響であなたの両親は亡くなったと思うんですけれど、そう言うことがおおやけになると、色々と都合の悪い人たちがいることは知っているでしょ?それでその人達は嘘の交通事故をでっち上げたんですのよ」

キモエは暗い顔をして自分の足下を見つめていた。同じ理由からではないのだがモオルダアとスケアリーも悲しそうな顔をしている。特にモオルダアには今の状況がつらいものだった。今キモエが立っている妙に綺麗な床は数時間前に彼女の母親が撃たれた場所なのだ。感じの悪い沈黙の中でモオルダアは何かを言わなければいけないと思い口を開きかけたが、その時モオルダアの携帯電話が鳴り出した。電話に出るとそれはスキヤナー副長官からだった。

「おい、モオルダア!何をやっているんだ!」

「何って言われても。なんかテンション低くなってるんですよ」

「なんだそれは?それはどうでもいいんだがね。キモエさんがいないんだよ。キミは何か知らないかね?」

「ああ、それなら大丈夫ですよ。今ボクらと一緒ですから。あなたが変な事をしてないということもちゃんと解ってますから、安心していいですよ」

「安心するもなにも、私が女性に変な事をするワケないじゃないか。あまり知られていないが、私は紳士ということでとおっているからね。特に問題がないのならそれでいいかな。まあ、せいぜい頑張りたまえ」

何を頑張るのか良く解らないが、スキヤナー副長官は電話を切った。さらに妙な気分にさせられたモオルダアが携帯電話をしまうと、キモエが顔を上げて言った。

「それじゃあ、仕方ないですね。あの家は大好きだったんですけど。でも私はあの家と昔の思い出に縛られていただけかも知れません。今の私には新しい空気が必要なんです。きっとそうに違いありません。あの家に戻れないのならそれで結構です」

ペケファイルの二人を見ながら話すキモエの瞳には何か吹っ切れた感じの力強さが感じられた。彼女に対して嘘の説明をしたことで多少の罪悪感はあったのだが、二人も安心したようだった。

「そうですわね。それも良いかも知れませんわね。新しいお住まいが見つかるまでは、あたくし達が責任を持ちますから心配なさらないでいいんですのよ。それに、あなたの大切な思い出の品だって持ち出すことは出来るんですから」

スケアリーは不自然な笑いを浮かべながらモオルダアの方へ助けを求めるべく視線を投げかけたが、モオルダアからはもう出任せは出てこなかった。しかし、それはどうでもいいことだったのかも知れない。あの家を去ることは「終わり」ではなく「始まり」なのだとキモエは理解していたようだった。

 モオルダアは本当にこれでいいのかと思ってキモエの方へ視線を移した。するとその時、キモエの後ろに見える駐車場の出入り口の通路をネコが走って出ていった。

「あら、またネコですわね」

スケアリーもネコに気付いていたようだ。

「しかも、黒猫」

モオルダアが小さくつぶやいて、スケアリーと目を合わせた。「きっとこれでいいのだ(ですわ)」と二人は思った。ネコが走り去っていくのを見て、なぜかこの暗い駐車場が少し明るくなったような気もしていた。