「多利佐久美」

14. 病院・川崎市

 夜になって母親の移送された病院へやって来たモオルダアが病室に入ると、眠っている母の姿があった。すぐに担当の医者がやって来て、モオルダアに彼女の容態を説明した。

「いつ目が覚めるでしょうか?」

モオルダアが医者の話の後に聞いた。

「どうでしょうか。昼間はずっと寝てましたしね。体力も消耗しているでしょうから。それに、急性アルコール中毒といっても、時には命を落とす人もいますし。お母様の場合も通報が遅れていたらどうなるか解らなかったんですよ。今はずっと良くなりましたが。少し入院することになると思いますよ」

「そうですか…」

そういったモオルダアの頭に様々なことが思い浮かんできて、何も言うことが出来なくなってしまった。医者は彼の母親が調子に乗って飲み過ぎたために運ばれてきたとしか思っていなかったので、モオルダアが母親の行動に対して複雑な思いを抱いているのではないか?と思っていた。実際には違うのだが、複雑な思いということに関しては大体あっている。

「あの、なにかあれば呼んでください」

モオルダアに気を使ったのか、医者はそう言って部屋から出て行った。

 モオルダアはベッドの横の椅子に座って母親の顔を見つめていた。そして、同じように急性アルコール中毒で病院に運ばれた父親のことを思い出していた。父親と同じように、このまま母親も降板になるのだろうか?父親降板後、母は自由に楽しんでいたようだが、そろそろ淋しくなったりしていたのだろうか?そこへこんなことが起きたのなら、闇組織に付きまとわれて辛い思いをするよりも降板するのが得策だと気づくだろう。

 父がいなくなり、次は母親。そして、いるのかどうか解らない兄はどうなっているのか?そんなことを考えながら、モオルダアは自分が何も出来ないまま一人取り残されてしまったような気分になってきた。そして、悲しみとは少し違う何か。無力感なのか、怒りなのか。なぜかこみ上げてきた涙がモオルダアの頬をつたって床に落ちていった。


 モオルダアは帰って寝た方が良いのかも知れない。この事件の最初の方からあまり寝ていないモオルダアはそうとう疲れているはずである。体が弱っている時にはちょっとした精神的ダメージが大きなものに感じる時もあるのだ。しばらくしてから病室を出てきたモオルダアは弱り切った感じでドアをしめると、そのドアに背をもたせかけて虚ろな瞳で天井を眺めていた。見えているのは天井ではなくて、何でもない空間。彼の心に広がる不安と恐怖に満ちた空間のようにも思えた。

 そうしていると不意にパチッという音が聞こえてモオルダアは我に返った。音のした方を見ると、そこにはウィスキー男がいて、さっき買ってきたばかりのウィスキーのビンを持っていた。パチッという音はそのフタを回して開けた時の、あの円い部品がハズレる時の音だったに違いない。

 モオルダアは一瞬自分が何を見ているのか解らなかったが、次の瞬間にはいろんなことが頭の中を駆け巡って、さらには彼には珍しく頭に血が上った状態になったようだった。いろんなことに腹が立ってきたモオルダアは、なにも考えられない状態で怒りにまかせてウィスキー男の方へ走っていくと、彼の胸ぐらを掴んでそのまま彼を壁に押しつけたのだった。

「そんなに酒が飲みたいのか?えっ!?そんなに飲みたいのなら、ここでヒドい目にあったら降板して一日中好きなだけ飲んでいられるぞ!」

モオルダアはそう言いながらモデルガンを取り出してウィスキー男に突きつけた。ウィスキー男はそれが本物のように見えてもモデルガンであることを知っているのか、あるいはたとえ本物であってもモオルダアがここで自分を撃つようなことはしないと確信しているのか。彼はいたって落ち着いている様子だった。

「私を脅そうというのかね?」

そういいながらウィスキー男は持っていたビンからウィスキーを飲もうとしていた。その態度にさらに腹を立てたモオルダアはそのビンを手で払った。ウィスキー男は彼の両親と同じぐらいの年齢であるし、少しキレ気味のモオルダアには力では太刀打ちできない。ウィスキーのビンは彼の手を離れて床に落ちた。小瓶だったので、落ちてもその重みによる衝撃は少なくてビンが割れることはなかった。もしも割れたりしたら、その音で誰かがやって来てしまうかも知れなかったが、今のところこの廊下には彼ら以外には誰もいない。

 そこに気づいたモオルダアは危ないところだった、と思って少し声を潜めて話し出した。

「ここであんたを撃ったとしても、ヤツらはあんたを助けるんだろ?」

「やってみるが良い。やってみたまえ、モオルダア捜査官」

「あんたは弾丸を頭に食らわない限り、母さんみたいな酩酊状態にはならないんだろ?」

ここで母親のことを思い出してしまったモオルダアは、押さえようとしていた怒りが再びこみ上げてくるのを感じて、ウィスキー男の胸ぐらを掴んでいた腕をさらにグイッと押し込んだ。ウィスキー男は苦しくなって、首が絞まらないように壁を背にしたまま少し伸び上がった。

「お母さんはどんな様子かね?」

モオルダアが胸ぐらを押さえていた力を少し弱めるとウィスキー男が聞いた。モオルダアは少し驚いていた様子だった。

「なんであんたが気にするんだ?」

「私は、キミが生まれる前からキミのお母さんとは知り合いなんだよ。…オックス君」

オックスってだれか?と思うかも知れないが、モオルダアの下の名前である。英語風にいうとファーストネーム。ウィスキー男がわざわざこの名前を使うのは挑発のためなのか、それ以上の意味があるのか。キレ気味のモオルダアにはそこまで考える余裕があったかどうかは解らない。

「そんなのどうでも良いんだよ!」

「つい最近彼女に会ったんだがね」

「そうだな。あんたは何かを探してるんだろ?」

「私は何も探していない。何かを探してるのはキミのお母さんの方だよ。連絡を取ってきたのはキミのお母さんの方だからな」

「ウソだ…!」

ウィスキー男がワケの解らないことを言うのでモオルダアはまた混乱してきて、そしてそれが彼をまた怒らせることにもなった。モオルダアはさっきよりも力を込めてウィスキー男を壁に押しつけた。また息が詰まりそうになったウィスキー男は苦しそうに先を続ける。

「そんなこともないぞ。キミの兄さんに関する情報も私は提供できるかも知れないんだぞ…」

ここでウィスキー男はモオルダアの兄に関する話を持ち出してきた。この話、つまりthe Peke-Filesの最初の予定に反して始まった本物の方のパロディの一部でもある今回の話なのであるが、こうなることが予定されていなかったために、モオルダアに兄がいるという設定は途中から出来たものなのである。それ故に、モオルダアは自分に兄がいるというのが本当なのかどうかも解らず、これは彼を一番悩ませていることでもあった。

 そんな兄の情報といわれるとモオルダアは先を聞きたくなってしまう。しかし、ちょうどそこで廊下の向こうの扉が開く音が聞こえた。モオルダアは慌ててモデルガンを上着の下にかくして、そしてもう一方の手の力を抜いて、ウィスキー男が自然な体勢になるようにした。

「彼はどこにいるんだ?」

上着の下でモデルガンの銃口はまだウィスキー男の方を向いていた。

「どこにいるんだ?」

もう一度聞くモオルダアには背後で先ほど扉を開けた誰かが近づいて来る足音が聞こえていた。そこに入って来たのは比較的若い看護師の女性だった。そして、彼女の方向からこの二人を見ると、不自然な感じで近くに立っていて、しかも小声でなにかを言い合っている。「やだ、これって…。まさか、この二人って、愛し合ってるの?!」と看護師の女性は思ってしまった。そして、あとで「さっきスゴいの見ちゃった!」という感じの話をTwitterで投稿するに違いない。

 なぜか話がそれたが、モオルダアはそんなことに気づかずにまだ鋭い視線をウィスキー男に向けていた。

「ある人物が詳細を知っているはずなんだが。姿を消してしまったようなんだ」

それは自分の聞いたことの答えにはなっていないとモオルダアは思った。

「あんたは何か探してるんだろ?」

「私は何も探してなんていないよ、モオルダア捜査官。…キミのお母さんの様子を見に来ただけだからね」

ウィスキー男はこれ以上モオルダアと話していても何も得られないと思ったようで、急に話をはぐらかすような感じになった。モオルダアもこれまで感じていた手応えのような何かを急に感じられなくなって、力が抜けてしまった。それに、いつまでもこうしているとさっきの看護師に怪しまれるかも知れない。

 モオルダアは最後まで彼の上着を掴んだままだったのだが、ここで手を離した。そして、上着の下に隠し持っていたモデルガンもいつものホルスターにしまうと、ここを出て行くことにした。

 一方で解放されたウィスキー男は何事もなかったような顔をして廊下の先のカウンターのところにいるさっきの看護師のところへ行った。そこで白々しくモオルダアの母親のことを訪ねたりしていたのだが、そこにいた看護師は「やだ、ちょっと!ヤオイのおじさんコッチに来た!」とか思って内心盛り上がっていた。今日は沢山Twitterに書く事があって楽しそうな看護師であった。