03. 東京近郊・古野方区(このかたく)
東京23区内に古野方区なんて名前の区はないので、東京近郊と言っても都外に違いないのだが、こんな場所はあっただろうか?あるとしたら川崎の上というか北の方にあるんじゃないかな?とも思う古野方区。そこにはモオルダアの一家が一時期暮らしていた家があった。
誰も住まなくなった空き家にモオルダアの母親の姿があった。「もう、ホントになんなのよ…!」モオルダアの母親は面倒な事をやらなくてはいけなくなったオバちゃんに特有の喋り方で、オバちゃん特有の台詞をつぶやいていた。
家に入るとほぼ全ての物は、ここを去った時のままの状態で残っていたのだが、一つ奥の部屋に行くとそこに誰かがいた形跡があった。その部屋の外の庭に面した窓が少し開いていたのだ。彼女をわざわざここに呼び出した「誰か」はこの部屋の外にいるのだろう。
モオルダアの母親は窓を開けて外に出た。窓の外には当時のまま残されていたサンダルが置いてあったのだが、砂やホコリにまみれてそれはほとんど地面と変わらなかった。それを履くのかどうか迷ったモオルダアの母親だったが、何も履かずに庭に出るのも気が引けたので地面とほぼ同じ色になっているサンダルを履いて庭に出てきた。
サンダルを履いているのになぜか素足のような気持ちで歩いていたモオルダアの母親は辺りを見回しながら庭の中程へと歩いてきた。網状のフェンスの向こうには近くを流れる川が見えた。(それが多摩川という事なら「川崎の上」というのは間違ってなさそうだが。)ここに住んでいた当時からあまり変わらないその川は、コンクリートと丈夫すぎる雑草に両脇を固められて、自然の姿など少しも感じさせない姿をいつまでも保っているようだった。
「ここにいたらピンときたんですよね」
突然背後から声がしてモオルダアの母親は驚いて振り返った。モオルダアに似ず、驚いてはいたが取り乱すような感じはあまりなかったが。ただ、振り返ると同時にウィスキーのニオイが漂ってきて彼女はかなり不快な表情になっていた。
「なんなのよ、まったく。何の用なの?」
モオルダアの母親が振り返った視線の先にはウィスキーのボトルをラッパ飲みする男がいた。
「変わらないのはあの河川敷だけだな」
男はウィスキーを一口飲んでからそう言った。
「こんな所に呼び出しておいて、何だって言うのよ!何が必要なの?ここに来るのがどれだけ面倒だか解ってるの?電車でもバスでも東京から来るのがホントに面倒なんだから。もう。何なのよ、まったく!」
モオルダアの母親はイライラしているようだったが、ウィスキー男の方は特に気にしていないようだった。お互いにマイペースということなのかも知れないが。
「懐かしいと思わないかね?」
「なんにもありはしないわよ!」
「ああ、そうなのか」
「私達の間には色々とあったと思ったがね。楽しかったよねえ。モオルダア家の仮の住み家で。子供たちは元気にはしゃいでいたよねえ。水切り遊びもしたよねえ。キミのダンナさんはスゴかった。五回も石を跳ねせさせたからね。まあ私の八回には及ばなかったがね。あれを見て驚かない人はいないよねえ。そうだろう?」
モオルダアの母親はウィスキー男がどうでも良いことを話し始めているので次第に腹が立ってきたようだった。
「そんなことを覚えてないわよ。まったく」
ウィスキー男としては水切り遊びで八回という記録をどうでも良いような扱いをされて少し動揺したようだった。そういう時にはまた一口ウィスキーをラッパ飲みする。そうするとちょっとでも失いかけていた自身がまたみなぎってくるのだった。
「覚えてないとは悲しい話ですな。今日わざわざ来ていただいたのは、あなたに思い出していただきたい物があったからなのですけどねえ。どうしても思い出してもらわないといけない物なんですよ」
そう言いながらウィスキー男は烏龍茶のペットボトルをモオルダアの母親に差し出した。
03. さっきの事件現場
事件現場ではまだ何の進展もなかった。例の男に助けられた人達に話を聞いたところで、奇跡が起きたとしか言いようのない説明しか聞けなかったので、そうなると現場から姿をくらましたその男のことを調べるしかなくなってくる。
モオルダアとスケアリーは現場でその男と話していたという刑事に話を聞いていた。ただし、その刑事は最初にスケアリーに「納得のいく説明の出来る人はここにいない」というようなことを言った男だった。その刑事から何か情報が聞き出せるのかどうかは怪しかったが、少しでも「例の男」と接触したのなら、話は聞いておいた方が良いに違いない。
「その男ですがね。名前は慈英麗舞 康光(ジエイレマイ・ヤスミツ)と名乗っていましたよ。でも調べたところ、住所はでたらめだし、免許証もなかったし」
刑事は少し参ってしまっている感じで話していた。彼が失敗をしたわけではないのだが、これは特異な事件であるし、何かやっかいなことになっていると思っていたのだろう。そういうやっかいなところはモオルダアにとっては盛り上がる要素でもあったのだが。(一方でスケアリーは「変な名前ですわね」と密かに思っていた。)
「それじゃあ、つまり外に止まっている車を調べても意味はないんですね」
「ああ、そうだな。多分そのへんから歩いて来たんだろう。この辺りは重点的に調べないとな」
スケアリーはまだ人間が忽然と姿を消すなんてことは信じられないようで、刑事の話を聞く態度もどことなく疑ってかかっているような感じだった。
「あなたは彼と話をしていたんでございましょ?」
刑事はやっぱりそこを気にするのか、と思った。
「ああ、全くバカげてると思うよ。だたし、これは確かなことなんだ。こうやってちょっと下を見てメモをとってるでしょ?!それから、こうやって顔を上げるでしょ?!…そうしたら、そこには誰もいなかったんだから。ホントに消えちゃった、ってそんな感じだったんですよ」
刑事は少し大げさな身振りで説明していた。ただし言っている事はこれまで聞いた話と大して変わらないことに気づいてしまうと、その話には意味がないのだが。
モオルダアは最後の方は半分ぐらいしか聞かずに、退屈になったのか窓の外を眺めていた。外には早くも駆けつけていたテレビ局のスタッフと彼らを乗せてきたワンボックスの車が見えた。モオルダアはテレビに出てる女子アナとか乗ってないかな?とか思いながらそこを眺めていたのだが、そこで少女的第六感が彼に何かを語りかけようとしているのを感じ始めていた。
ここで事件は進展するのか、と思いきやモオルダアのポケットの中で携帯電話が鳴り始めてモオルダアはビクッとなっていったん考えるのをやめた。そして電話に出た。
「モオルダア捜査官。こちらはスキヤナー副長官のオフィスです。今彼に変わります」
電話はスキヤナー副長官からだった。それにしても、なんで秘書が電話をかけてスキヤナーは自分で直接電話をしないのか?と思っても良さそうだったが、電話が鳴ってちょっとドキッとしたモオルダアはそういうことを考える余裕はあまりなかったようだ。そうこうしているうちにスキヤナーが話し始めた。
「モオルダアか?たった今連絡が入ったんだが、ちょっと緊急事態のようだ」
「なんですか?」
「キミのお母様だがね。救急で病院に運び込まれたってことなんだよ。場所はコノ…コノカタ…?」
「古野方区ですか?!」
どうやら少女的第六感どころではなくなって来たようだ。そして、自分の母親がそんな場所で何をしていたのか、と不審に思った。とにかくモオルダアは古野方区の病院へ急いで向かった。