「多利佐久美」

07. 古野方区・旧モルダア家

 モオルダアは電車やバスを乗り継いで、やっとのことで古野方区に辿り着いた。ここに来るのは何年ぶりだろうか?いや、何十年ぶりというほうが良いだろうか?そう思ったモオルダアだったが、人間の寿命を考えると「何十年ぶり」という表現は多少大げさかも知れないと思った。ただ、最後にここに来たのは10年以上前に違いない。そして、それは彼の母親にとっても同じだっただろう。しかし、なぜモオルダアの母親はここへやって来たのだろうか?

 古野方区にあるモオルダア一家の家は、彼の実家の改築工事の間に彼らの仮住まいとして借りた家だった。都心に近いのだが交通の便が極端に悪く、この場所は一般にはほとんど知られていないばかりか、時には地図にも古野方区の名前は掲載されていないほどである。それ故にこの家の賃貸料は驚くべき安さでもあった。そして、なぜかいまだにモオルダアの父親名義でこの家は彼らが借りている事になっているようだ。何かの手違いによってそうなっているのか、あるいは別の理由か。彼の父に会えるのなら理由を聞きたいところだが、降板して話に登場できない父親に話を聞くことは出来ない。

 モオルダアの母親はこの家をまだ自分たちが借りていることを知っていて、鍵を持ってやって来たのだろう。そして、そのまま病院へ運ばれたためにモオルダアがやって来てもドアは開けっ放しになっていた。

 モオルダアは家の中に入ると何とも言えない懐かしさを感じていた。家の改築をするほんの僅かの間にすんでいた場所だが、まだ若かったモオルダアには短い間であってもいつもと違う場所で生活するという事は、それなりに刺激があったのである。

 そして、この家はボロかったのだが、都内にある彼の実家よりも広くて外に見える景色も新鮮だった。家のすぐ裏に広い河川敷のある大きめの川が流れていたので、部屋の中から見ると、窓の外には視界を遮る物が無く、そこに無限の空間が広がっているようにも思えたのだった。両脇に隣の家があって、裏には裏のお婆ちゃんの家があったりする都会の住宅街ではあまり経験できないことである。

 そんなことを懐かしんでいる場合ではないのだが、家の中に入っても特に何をして良いのか解らずにモオルダアは庭の方に出てみた。誰も手入れをしない庭には雑草が生い茂っていたが、その向こうに見える川の方は昔のままのようだった。

 モオルダアは川の方を見ながら懐かしい気分と共に重苦しいものが胸を押しつけてくるような気分になっていた。母は一体ここに何をしにきたのか?なにが原因で倒れるほど酒を飲んだりしたのか?それは、自分や自分の家族となにか関係があることなのだろうか?そう考えているとまだ夕方というには早すぎる時間にもかかわらず、川面は暗く雲って見えるようだった。そして、そうやって気分が落ち込んでいる時に驚かされると、モオルダアのヘンな悲鳴はさらにヘンになる。彼の背後で突然声がして、モオルダアは「ハビョッ!」という感じの悲鳴を上げて振り返った。

「彼はここにいたぞ」

その声を聞いて、驚きすぎて息が荒くなっているモオルダアが声のした方を見ると、そこには謎の男がいた。「謎の男」というのはなんなのか?というと、これまで何度も登場してモオルダアに秘密の情報を提供してくれたりした謎の男のことである。登場人物紹介コーナーでは「ミスター・ペケ」と紹介されているはずである。

 ミスター・ペケは予想以上にモオルダアが驚いていたので、少し申し訳なさそうな表情をしていたようだったが、感情はあまり表に出してはいけない役どころなので、すぐにいつもの無表情に戻ってモオルダアに近づいて来た。

「な、なにが?!」

モオルダアはなんとかして息を整えようとしていた。しかし、優秀な捜査官っぽい対応とか、そういうことは一切忘れているようでもある。

「キミのお母さんとだよ。…ウィスキー男がね」

「なんの話か…。何言ってるの?」

モオルダアはいまだに優秀な捜査官っぽい対応がで出来ずにいるようだった。ただ、ウィスキー男と聞くとなにか嫌なことを思い出す感じがした。ミスター・ペケもこういう感じのモオルダアを見ているとたまに不安になるのだが、彼の「なぜか上手くいってしまう天才的な才能」は認めないわけにはいかないので、そのまま話を続けることにした。

「この情報で捜査が捗ると思うんだがね」

ミスター・ペケはそう言いながらトレンチコートのポケットから何かを取り出した。トレンチコートというのは時々流行ったりするものだが、彼の着ているような古風なものはあまり見かけない。それに無表情で、見方によってはいつでも怒っているような彼が着ていると、そのトレンチコートがミスター・ペケに近寄りがたい雰囲気を与えているようだった。

 そういう様子をみて、モオルダアは少しだけいつもの緊張感に戻ることが出来たようだった。格好良い人と一緒にいると自分も格好良くなった気分になるし、こういう厳格な感じの人といると自分もそういう人間になったような錯覚を起こすものである。モオルダアはちょっと深刻な表情になってからミスター・ペケの差し出したものを受け取った。それは数枚の写真だった。

 その写真に写っているのはモオルダアの母親とウィスキー男の姿だった。そして、その写真の場所は彼が今立っているこの場所に違いなかった。彼の母親はやはりここにやって来て、そしてなぜかそこにウィスキー男もいたという事だ。

「これって、あなたが撮ったんですか?」

モオルダアは驚きと共に言いしれぬ感情がわき上がってくるのを感じていた。このウィスキー男が一体ここで何をしていたのだろうか。

「誰が撮ったか、それは問題ではないだろう?問題はそこに写っていることじゃないかね?」

ミスター・ペケはモオルダアがどんな状況であっても冷静にことを進める。

「どうやら驚いているようだね。キミは彼らが知り合いだと知っていたかね?」

モオルダアは写真を見ながら首を振ってノーを示していた。

「あるいは、彼らをここに呼び寄せた何かを知っているか?」

そう言われてもモオルダアには何のことだか解らなかった。しかし、ミスター・ペケが何でそんなことを聞くのか?と疑問に思った。いつでもウッカリとミスター・ペケのことを信用してしまいそうになるモオルダアだったが、時には重要な証拠品を奪うこともあったし、気を許すことはできない相手だと言うことをやっと思い出したようだった。

「知りませんよ」

モオルダアは写真から目を話してミスター・ペケの方を見ると少しきつい感じで返事をした。それから、また新たな写真に目を向けた。そこにはウィスキー男からペットボトルを受け取る母親の姿が写っていた。

「ヤツが母さんに酒を飲ませたの?」

「それは解らんな。私には烏龍茶のペットボトルに見えたよ。だが彼が立ち去って、お母さんがそれを飲むとその場に倒れたんだ。私がいて通報しなかったらお母さんは手遅れだったかも知れないぞ」

モオルダアはそれを聞いて少しゾッとしていた。一体自分の母親が何を知っていて、ここで何をしていたのだろうか?国の機関で働いていた彼の父親ならそういうことをしてもおかしくないのだが、モオルダアの知っている母親は、家に帰るといつでもテレビの前に座って午後のドラマの再放送を見ている人でしかなかったのだ。その母親が一体何をしていたのだろうか?

「彼らは何を話していたんですか?」

「さあな。話が聞こえるほど近づけないのは解るだろう?」

「でも、なにかアテがあったから、あなたもここにいたんじゃないですか?」

モオルダアは我ながら上手いことを言ったと思っていた。時々こういうことが無意識に口に出てくるのがモオルダアの恐ろしい才能でもあった。

「彼はお母さんから何かを欲しがっていたようだったが」

ミスター・ペケはそれでも冷静に話していた。

「お母さんがこの家に隠しているものだと思うがね。他に彼らがこの家で会う理由をキミは知っているかも知れんが?」

モオルダアの適当な思いつきによる天才的発言にミスター・ペケは頭脳をフル回転して答えないといけない。ただ、モオルダアも自分で意識して天才的な発言をするワケではないので、そういう質問には普通に答えてしまう。

「うーん…。この家をまだ借りてることも知らなかったし。改築工事が終わってからは誰もここに来てないと思うんだけどなあ…。だいたい、ここって来るのが大変だし。母は遠出があまり好きじゃないんですよね」

あまりにも普通すぎる答えにミスター・ペケとしても何か裏があるのでは?とも思ってしまいそうだった。

「それは、とても古い物のはずなんだ。そして、とても重要な物に違いないんだが」

「全然わかんないですね」

「全然?」

ミスター・ペケは鋭い眼差しをモオルダアに向けて聞いた。

「全然です」

モオルダアはその表情をみて、いつもは夜会ってるから気づかないけど、この人は明るい場所で見ると思ってた以上に恐い顔をしているんだな、と密かに思っていた。そして「恐い人に怒られる前に逃げる」という子供時代からの習性によりモオルダアは黙ってその場を離れて家の中に戻っていった。