「多利佐久美」

04. 古野方区にある病院

 モオルダアは受付で母親のいる病室の場所を聞くと、走り出したいのをこらえながら早歩きで病室へと向かった。そこでは意識のないモオルダアの母親が点滴をうたれながら横たわっていた。いつものように何気なく接している時には何も感じなかったのだが、こうして意識を失って横たわっている母親の姿はモオルダアに衝撃を与えた。それはあまりにもか弱くて、心細くなるような母親の姿だった。それは目を背けたくなるような光景だったが、彼女の年齢を考えたら無理もない。モオルダアは母親の寝かされているベッドの横に立って力なく横たわる母親を見つめていた。

 そこへスケアリーが入って来た。モオルダアだからといって、母親が緊急に入院したとなっては放ってはおけなかったに違いない。というよりも彼女の車があったから電車では遠回りしないと来られないこの場所へ最短距離でやってこられたのだが。

 真っ先に病室へやってきたモオルダアとは違い、自称医者のスケアリーでもあるので、他にやることをやってからここへ来たようだった。

「看護師の方に聞いたのですけれど。お母様は急性アルコール中毒らしいですわね…」

モオルダアはスケアリーの言うことが聞こえているのかどうか解らないような感じで、母親に毛布を掛けた。

「寒そうだね」

いつだって自分のことか自分の興味のあることしか考えないようなモオルダアが、自分以外の人に毛布を掛けている。しかもその声はちょっと泣きそうな震え方をしていた。それだけでスケアリーにはモオルダアの受けた精神的な打撃がすぐに解った。モオルダアに同情することもできたが、彼女は自称医者で科学者でもあるので、まずは言うべき事を言うことにした。

「モオルダア。あまり悲観してはいけませんわ。意識がないのはアルコールのせいですし、適切な処置をすれば大丈夫ですわよ」

モオルダアは聞いていたが、まだ母親の方を見つめたままだった。

「アルコールなんて。飲めない体質だからこれまでほとんど飲まなかったのに…。母さんどうしたんだよ…?」

モオルダアが母親に語りかけるとちょうどそこへやって来た看護師が言った。

「まだ眠っている状態ですから、会話は無理ですよ」

「どうして母はここにやって来たんですか?」

モオルダアは背後にいる看護師に聞いた。

「通報があって救急隊医院が駆けつけると部屋の中に倒れているお母様を見つけたんです」

そう言っても聞いているのか聞いていないのか解らないようなモオルダアだったので、看護師は損したような気分になって外に出て行ってしまった。しかしモオルダアは聞いていたようで、どうして彼女がそんな場所にいたのか?ということを考えていたようだった。そして、モオルダアがベッドの横に膝をついて母親に顔を近づけると、ちょうどその時に母親が意識を取り戻したようだった。

「ちょっと、母さん。何やってるんだよ。ビックリするじゃないか」

モオルダアがそう言ったものの、母親はまだ意識がはっきりしないようで何も言わなかった。あるいは何かが言えるほど回復していなかったのかも知れない。彼女は片手を揚げると半分だけ握ったような手を左右に動かして何かを伝えようとしていた。

「何それ?どういうこと?」

モオルダアには伝わらなかったようだ。

「きっと何かを書きたいんですわ」

モオルダアの母親の仕草から何かを感じ取ったのはスケアリーの方だった。そして、彼女は上着のポケットからメモ帳とペンを取り出してモオルダアに渡すと、モオルダアがペンを母親に持たせた。

 母親はペンを持ってモオルダアが差し出しているメモ帳に文字を書き始めた。まだ朦朧としている意識の中で書いているので、ギリギリ文字だと解るぐらいの文字しか書けていなかった。

 モオルダアの母親はやっとのことで二文字をメモ帳に書くと疲れ切った感じで手を下ろした。モオルダアの持っているメモ帳には「ひら」と書かれていた。

「って、どういうこと?」

とモオルダアは母親に聞いたのだが、母親はすでに眠っていた。


 しばらくすると、モオルダアの母親は病室から運び出された。完全に回復したワケではないのだが、状態が安定したのでこの緊急事態に備えている感じの大きな病院から、もう少しユルい感じの病院に移送されるところだった。

 モオルダアは一体母親に何が起きたのか?と心配せずにはいられなかった。移送のために救急車に乗せられる母親はあまりにも弱々しい。少年時代に勝手に部屋に入ってきて彼のエロ本を見つけだして捨ててしまうような鬱陶しい母親の姿はそこにはなかった。

 うなだれるモオルダアのところへスケアリーがやってきた。

「お母様は、良くある急性アルコール中毒ということみたいですわね。どうしてそんなことになったのか解りませんけれど、通報が早かったのが幸いでしたわね。お母様の年齢のことを考えると、血中のアルコール濃度が急激に上昇することは危険なことなんですけど、早く処置が出来て良かったですわね」

スケアリーが言うのを聞きながら、モオルダアは「スケアリーってこんなに優しい喋り方ができるんだなあ」と思ってしまったら、返す言葉も喉の奥で詰まってしまって何も言うことが出来なかった。そして、なんとかして「そうだね」と言うのが精一杯だった。

 スケアリーの方もこんなモオルダアを見るのは初めてだった。そして「大丈夫なんですの?」と言わずにはいられなかった。大丈夫かどうか解らなかったが、ダメになる理由もそれほどあるわけではない。「大丈夫か」と聞かれてそれを別の角度から考えてみると、意外と今の状況は大丈夫でもある。もしかすると彼の中では彼の少女的第六感が彼に何かを伝えていたのかも知れない。

「うん。まあ、大丈夫。ダイジョブだよ」

そう言った後にモオルダアはこれまでのことを頭の中でなんとかして整理してみた。都内のファミレスであの驚くべき事件が起きて、それなのになんで今は古野方区という、どこだか解らない場所の病院にいるのか?それを考えると、彼の少女的第六感はますます彼に何かを伝えようとしているように思えるのだった。

「どうやら全ては関連しているようだね」

「関連って、何がですの?」

スケアリーはこんな所でモオルダアのこういう自信満々な表情を見るとは思ってもいなかった。

「あのファミレスの事件とこの件だけど」

「すみませんけど、あたくしには何のことだか理解できませんわ」

スケアリーはまだモオルダアに気を使っているので柔らかく否定していた。

「ボクの母はメモに『ひら』と書いたよね。そして、ファミレスで消えてしまった男は『手のひら』で犠牲者を救ったそうじゃないか」

何でそうなるんですの?!とスケアリーは思った。

「キミはまた『考えすぎですわ』って思うと思うけどね」

そのとおりだとスケアリーは思った。だがモオルダアの母親が「ひら」とメモ帳に書いた時にちょっと何かを感じないこともなかった。でもそれらはタダの偶然に違いないというのが、いつものスケアリーの意見であり、それは今回も変わりはない。

「ちょいとモオルダア。どうしてそんな事件がここにまで関係してくるって言うんですの?お母様の年齢を考えたら、お酒の影響で危険な状況になることは考えられることですし。ここで起きた事に事件を関連づけるのはおかしな話ですのよ」

「でも、どうして『ひら』だったんだ?」

「それには、なにか理由があるのかも知れませんけれど…」

スケアリーはモオルダアの今の状況から考えて、あまり強く反論する気にはなれなかった。ただし、彼の突飛な考えには歯止めをかけておく必要があると思った。

「でも正直言いますと、あのメモに意味はあるかどうか疑問ですのよ。はっきりした意識のもとで書かれたものではございませんし…」

「ただし、それを正確に証明することも出来ないでしょ?事件現場の犠牲者が助かった理由も、彼らを助けた男が煙のように消えてしまった理由も同じく証明できない」

スケアリーは何でいつもこういう風に面倒な事になるのかしら?と思いながら力説するモオルダアの話を聞いていた。

「証明して見せますわよ。それよりも、あなたはすぐに休むべきですわ。近くのビジネスホテルまで送りますから、そこで休んで続きはまた明日にしませんこと?」

スケアリーは今のモオルダアと話していても先に進めないと思ったようだったが、モオルダアは違っていた。

「いや。ボクはFBLに戻ってやることがあるんだ」

「やる、って何をですの?!」

スケアリーにはモオルダアがこの状態で何を思いついたのか理解できなかった。

「奇跡の男を見つけるんだよ」

こういう表情のモオルダアを見ると逆にスケアリーの方が帰って休みたくなってしまうのだが、モオルダアが何かを思いついてしまったようなので、付き合うしかなさそうだった。今回は多くの人が「科学では説明不可能な現象」を目の当たりにしているのだから、バカバカしいという理由で放置してはおけない事件でもあったのだし。