「GONE」

1. ヨシオ君とヨシオ君のお母さんとヨシオ君の家

 昼の一時を過ぎ、ヨシオ君のお母さんはヨシオ君のために用意した朝食をゴミ箱に捨てたところだった。ヨシオ君は最近まったくヨシオ君のお母さんと顔をあわせていない。ヨシオ君のお母さんは「思春期の男の子などそういうものだ」と思うことで彼女の不安をなんとかごまかそうとした。

 ヨシオ君は家にいる間、ほとんど自分の部屋から出てこない。時には本当にヨシオ君がこの家に住んでいるのかどうかすら解らなくなるほどだ。ヨシオ君のお母さんが心配になってヨシオ君の部屋の前で聞き耳を立てるとヨシオ君がパソコンのキーボードをたたく音は聞こえてくる。それを聞いてヨシオ君のお母さんはヨシオ君が何かに夢中になっていることは知っていた。しかしパソコンのことはまったく解らないヨシオ君のお母さんはそれ以上ヨシオ君のことを詮索することはしなかった。

 しかしヨシオ君のお母さんは、そろそろ行動を起こさなければいけないところまで来ていた。この三日の間ヨシオ君は家族と顔を合わせないばかりか、学校にも行かずに部屋に閉じこもりきりなのである。

 本当はもっと早くにヨシオ君の異常に気付くべきだったのだが、今となってはもう遅い。ヨシオ君のお母さんはヨシオ君の部屋に無理にでも押し入って、今のヨシオ君の身に何が起きているのかを知るべきだったのだ。しかしヨシオ君のお母さんにはそれが出来なかった。「愛情が足りなかった」などということは決して考えたくなかったが、ヨシオ君のお母さんには確信が持てなかった。

 父親は仕事でほとんど家にいることがないため、ヨシオ君のことはほとんど彼女が世話してきた。彼女の育て方に間違いがあったのかどうか、そんなことは到底解らない。つい最近まではヨシオ君は普通に学校に行き、帰ってくると母親と二人でその日の出来事を話したりしていたのだ。それが、突然部屋に閉じこもりがちになり、ついには出てこなくなった。たまに部屋から出てきた時にヨシオ君の姿を見ることはあったが、ヨシオ君のお母さんは彼を見るとまるで幽霊を見たかのようにゾクッとしてしまうのだ。何かに取り憑かれたような薄暗い目つき。それにヨシオ君の体をすかして後ろの壁が見えるような錯覚。ヨシオ君に何かが起きていることはヨシオ君のお母さんには解っていた。

 何かは知らないがヨシオ君はヨシオ君ではない何者かに変わってしまったのかも知れない。そんなことを考えると、ヨシオ君のお母さんは彼の部屋へ押し入るようなことは出来なかった。本当はそんなことは想像したくもないのだが、彼女がヨシオ君の部屋に入るなり、逆上したヨシオ君が襲いかかってくる光景が思い浮かぶ。

 ヨシオ君のお母さんは彼の部屋の前にいきドアノブに手をかけた。「変な想像をして不安になるのは私の悪い癖。中に入ってゆっくり話せばきっと問題は解決するに違いない」そう思っては見たものの、ヨシオ君のお母さんはドアノブを回すことが出来ない。中からは絶えずパソコンのキーボードを叩く音が聞こえていたのだが、ヨシオ君のお母さんがドアノブに手をかけるたびに、何かの警告のようにキーボードを叩く音が大きくなるような気がしたのである。


 ヨシオ君のお母さんがヨシオ君の部屋の前で逡巡していると、ヨシオ君の家のドアベルが鳴った。ヨシオ君のお母さんは少し救われたような顔をして玄関へ向かった。「やるべきこと」の順番が都合によって変わるのは誰でも同じである。ドアベルが鳴ったおかげでヨシオ君のお母さんはヨシオ君との対面を後回しにすることが出来たのだ。

 ドアを開けるとそこには学生服を着た中学生が二人立っていた。

「あら、あなた達はヨシオのお友達の…」

「はい。ヨシオ君が最近無断欠席してるから、様子を見に来ました」

一人の少年が多少モジモジしながら言った。ヨシオ君のお母さんはこれで本当に救われた感じがした。親に解決できない問題を友達が解決してくれることだってあるのだ。そんな風に思いながらヨシオ君のお母さんは二人を家に入れた。

「わざわざ来てくれて。本当にヨシオはしょうがないわねえ。別に病気ってワケじゃないんですけどねえ」

二人の中学生はヒョコヒョコとアタマを下げながらヨシオ君の家にあがった。二人はヨシオ君の部屋がどこにあるかを知っていたので、その先は二人だけで進んでいった。

 ヨシオ君のお母さんは思いがけず訪れた二人のために紅茶でも入れようと台所へ向かっていた。そこへ、思いがけない声が聞こえてきた。

「あれ?!ヨシオのやついないじゃん」

これを聞いてヨシオ君のお母さんは思わず持っていたティーカップを落とすところだった。ヨシオ君がいないとはどういうことか?ヨシオ君のお母さんは慌ててヨシオ君の部屋へと向かった。

 開いたドアの前でヨシオ君の友達が部屋の中をながめている。一人がヨシオ君のお母さんに気付いた。

「ヨシオ君いませんよ」

ヨシオ君のお母さんは青ざめた顔を二人に見せないようにしながら、ヨシオ君の部屋に近づいてきた。

「あら、おかしいわね。トイレかしら?」

そう言ったものの、さっきから誰もトイレに入った気配は無かった。それよりもついさっきまで部屋のなからはパソコンのキーボードを叩く音が聞こえていたのだ。

 ヨシオ君のお母さんは恐る恐るヨシオ君の部屋を覗いてみた。カーテンを閉め切って薄暗い部屋の中にパソコンのモニターだけが煌々と輝いていた。だれも操作していないのにもかかわらず、そのモニターには次々に意味をなさない文字が表示されていき、先に表示されていた文字をどんどん上へと押しやっていった。

「ちょっと!ヨシオはどこへ行ったの?」

二人を押しのけて部屋に入るとヨシオ君のお母さんは誰に聞いたわけでもなく、わめくように言った。二人の友達はヨシオ君のお母さんがあまりにも動揺していることに驚いて、タダ彼女を見ているだけだった。そうしている間にもモニターには次々と文字が表示されていく。

「ヨシオー!ヨシオー!」

ヨシオ君のお母さんはそういいながらヨシオ君の部屋の中をグルグル回って、そのまま倒れ込んでしまった。ヨシオ君の友達の二人は驚いて後ずさりながら互いの顔を見合わせるのが精一杯だった。