21. スケアリーと技術者と高級セダン
スケアリーは慌てて車に乗り込むと急いでエンジンをかけた。その時ブレーキペダルにのせた足と反対側の足に何かがぶつかった。それを手探りで探して掴んでみると彼女の携帯電話だった。さっきこの車に乗り込んだ時か、降りる時に落としたのだろう。彼女はとりあえずそれをポケットの中にしまうと車を発進させた。とにかくこの不気味なボロアパートの前から遠ざかりたかったのだ。
どこへ向かうか解らないまま、スケアリーは車を走らせていた。モオルダアのアパートから遠ざかるにつれて次第に落ち着きは取り戻してはいたのだが、これから何をすべきかがまだ解らなかった。ヨシオ君のことも別人にすり替わってしまったという「帰ってきた男」の事も、さらには気味の悪いモオルダアの事もまったくどう考えれば納得のいく説明が出来るのか解らない。行き場のない数々の問題とともにスケアリーの車は右折したり左折したりして、ほとんど人のいない道を進んでいた。
しばらく、あてもない深夜のドライブをしているとスケアリーのポケットの中でメールの着信を伝える音が鳴った。ボンヤリと考え事をしながら車を運転していたスケアリーはハッとして車を止めるとメールの内容を確認した。
至急連絡ください。技術者
スケアリーがさらに携帯電話を操作すると、彼女が車から離れている間に技術者から何度も着信があったことが解った。何かすごいことが解ったのだろうか?スケアリーは慌てて技術者に電話をかけた。
「スケアリーさん、どこに行ってたんですか?家にもつながらないし、モオルダアさんは全然電話に出ないし」
「そんな事はどうでもいいんですのよ!それより何か解ったんですの?」
「ええ、すごいことが解りましたよ。とにかくエフ・ビー・エルに戻って来てくれませんか?ついでにモオルダアさんもつれてきてくれると助かりますが」
スケアリーはモオルダアの事はあまり考えたくなかった。あの気味の悪い部屋のうっすらしたモオルダアのことは。
「モオルダアは…、あれですわ。なんだか体調が悪いみたいですわよ。ですからあたくしがここはなんとかいたしますわ。そんな事よりも、もったいぶらないで何が解ったのかぐらい話してくれたらどうなんですの?」
「それはそうなんですけど、言葉で説明すると結構ややこしい感じですしねえ。それにこういうことはモオルダアさんの専門だと思うんですが…」
「だから、そんな事はどうでもいいと言ってるんですのよ!」
ハッキリしない技術者の態度にイラついたために、少しずつスケアリーらしい態度が戻ってきた。
「まあ、解りやすく言うとウィルスが見つかったんです。これまでに見つかったどんなウィルスよりも強力なコンピューターウィルスです」
多分、技術者はまた少し解りやすくしすぎた、と思っているかも知れない。解りやすすぎると、少しは知識のある人にとっては解りづらい説明になるのだ。
「まあ、どうでもいいですわ。とにかくあたくしはそちらに行きますから」
スケアリーは理解したのか、それとも少しは知識があるにもかかわらずこれ以上の説明は期待出来ないとあきらめたのか知らないが、とにかくエフ・ビー・エルへ向かうことにしたようだ。
22. スケアリーと技術者とオルダモアの捜査ファイル
スケアリーはエフ・ビー・エルビルディングに戻ると技術者の待つ研究室へと向かった。コンピューターと何に使うのか良く解らない機材とオシロスコープのような物がたくさん並んでいる。
「ちょいと、どういう事ですの?」
スケアリーは入るなり技術者に聞いた。その声には疲れ切った感じがして力が無かった。技術者はスケアリーの顔が多少青ざめていることに気付いたが、それよりもこれから彼女に報告することの方が重要な気もしていたので、特にそのことには触れなかった。その前に技術者は何から報告すればいいのか迷っていた。
「ウィルスが見つかったんでございましょ?」
順番はスケアリーが決めてくれたようだ。しかし、ウィルスのことから話して全てを上手く説明出来るかが問題だ。別のことから話したとしても彼が知ったことを上手く説明するのは困難なことではあるのだから、何から話しても同じ事だ。
「そうなんです。ウィルスなんです。ボクが謎のブログサービスを調べるのに、そのホームページにアクセスしたら、このコンピューターも感染していたんです。そのウィルスを解析してみると面白いことが解りました。感染したパソコンを使って謎のブログサービスでブログを書くためにログインすると、そのパソコンにさらに危険なウィルスをインストールする仕組みになっていたんです」
「感染すると使っている人間の体が見えなくなってしまうということですの?」
技術者はコンピューターを見ながら話していたのだがスケアリーの発言に驚いて彼女を見た。彼女はまだ疲れた顔をして立っていた。
「そうじゃないですけど…。あの座ったらどうですか?それからコーヒーでも飲みますか?」
スケアリーは黙って椅子に座ると、今の発言は失敗だったと後悔した。だが、もし「そうなんですよ」などという答えが返ってきたとしたら、スケアリーは元気を取り戻していたかも知れない。いずれにしてもさっきモオルダアの部屋で体験したことに納得のいく説明が出来ればそれでいいのだ。
技術者がコーヒーを入れて戻ってきた。見かけによらず意外と親切ですわ、と思ってスケアリーは笑顔でそれを受け取った。笑顔といっても口元を動かすだけで精一杯ではあったが。
「それで、そのウィルスに感染するとですねえ…」
技術者はまたスケアリーの変な発言で話を中断されないようにスケアリーの方を向いて話を始めた。
「感染したパソコンは画面上では今までどおりでも中身はまったく別のシステムになってしまうんです。ヨシオ君の家にあったパソコンの状態はそれの最終形みたいな感じなんだと思いますけど」
「別のものになると何が問題なんですの?」
「分散コンピューターの一部になります。それは、ある処理を複数のパソコンを使って負荷を分散されることで処理能力を高めるための技術ですけど…」
「そんな事をしてなんの意味があるんですの?」
スケアリーが分散コンピューターの事を知っていてくれたので技術者は多少ホッとした気分だった。これで面倒な説明は省けるようだ。
「それが解らないんですよ。謎のブログサービスがそのウィルスを利用者のコンピューターにインストールしているとしても、そこにはもの凄い矛盾があるんです」
そう言って技術者は別のパソコンのところに行ってスケアリーにモニターを見せた。
「これは謎のブログサービスの入会用のページなんですけど、ここを見てください。定員三名って書いてありますよね」
「分散コンピューティングをするのに三台じゃ少なすぎますわ」
「そうなんです。何をするのが目的か知りませんが、分散コンピューターならもっとたくさんのコンピューターを使わないと意味がありません。それで、実際にここにあるパソコンも意図的にウィルスに感染させてみたんです」
そう言って技術者はまた別のパソコンを指さした。スケアリーは少し考えてから技術者に聞いた。
「そのウィルスってどこにあったんですの?確か謎のブログサービスの謎のサーバーはどこにあるか所在がつかめないって言ってませんでした?」
「まあ、それはそうですけど、こうやってパソコンからはアクセス出来ますし、幸いモオルダアさんがブログを始めるにあたってボクにいろいろ聞いてきまして。それで、聞いてもいないのにモオルダアさんのIDとパスワードまで教えてくれて、それでモオルダアさんのブログの編集画面にもアクセス出来たんですよ。アクセスしたら自動的にウィルスに感染しますから」
モオルダアは始めからこのことを知っていて技術者にIDとパスワードを教えたのならすごいことだが、多分違うだろう。とにかくモオルダアのIT社会における危機管理能力の欠如にスケアリーは感謝した。
「それで、何か解りましたの?」
「正確には何も解らないんですけど、面白いことが解りましたよ。感染したパソコンは定期的に何かの暗号のようなものを画面に表示させるんです。暗号と言うよりは信号の方がいいですかねえ。これを見てください」
そう言って技術者はスケアリーにバーコードのような模様みたいな物がプリントされた紙を渡した。
「それは、パソコンに表示される信号の部分だけをプリントした物なんですけど、実際には画面上でその模様に対応する部分が一瞬点滅するだけなんです。もしかすると、この信号を送ることが、ウィルスの本来の目的なのかも知れません」
「それで、この模様に何か意味はあるんですの?」
「それはまだ解りません。バーコードとして読みとっても、機械は反応しないんです。たまに意味のない文字を読みとることがありますけど、それは偶然だと思います。多分これはバーコードではないんです」
スケアリーは渡された謎の信号のプリントされた紙を見ながら、この信号とさっきのうっすらとしたモオルダアや別人になった返ってきた男やヨシオ君の事などとの関連性を考えてみたが、そんな事は解るわけがない。スケアリーは心身共に疲弊していた。そんな彼女にとってこの信号と謎のブログサービスでブログを書いていた人間達の事を結びつけるのは、彼女自身がでっち上げたおかしな理論以外になかった。「肉体が少しずつ電波の一種になって放出されて、それがコンピューターの中に入り込んだ」という彼女の思いつきの考え。もしかして、この信号をモニター上から送信されるのを網膜が読みとって人体に何らかの影響を与えるのかも知れない、とスケアリーは本気で思いこみそうになっていた。
「これは妖怪ですわね」
技術者はこの言葉を聞いてちょっとスケアリーの事が心配になってきた。
「あの、スケアリーさん。ちょっと休んだ方がいいんじゃありませんか?あなたは、今日の朝早くからずっと働きっぱなしでしょ?」
「それはそうですけど、チャンスは今しかありませんでしょ?」
技術者はスケアリーが何を言っているのか良く解らなかったが、ちょっと恐ろしい気もしていた。実は技術者も先程オルダモアの書いた「同僚Sに関する謎」を読んでいたのだ。その内容を信じていたわけではなかったが、読んだ後にこんな怪しい事を言うスケアリーを目の前にするとちょっと恐ろしくなる。
「チャンスって、なんのチャンスですか?」
「ちょいと!あなたは技術者なんだからそのくらいは気付いてくださらない?」
スケアリーが少しきつい口調になって技術者はたじろいだ。
「貴重な三名の定員の中にモオルダアがいて、あたくし達はモオルダアのIDとパスワードを知っているんですのよ!」
それを聞いて、技術者は安心した。まともな考えだ。
「そうですね。そう考えたらボクらは普通の状態より一歩だけ謎のブログサービスの謎のサーバーの近くにいるんですよね」
とは言ったものの技術者は何をしたらいいのかまでは解らなかった。