21. 恐い倉井の家
倉井は階段を数段降りてモオルダアの近くまでやって来た。しかし、彼はまだ迷っているようでナイフを持ったままモオルダアの方を見つめていた。先ほどからナイフを振り回したり、壁を突き刺したりしたためか、普段から運動をほとんどしない倉井は息を荒げている。鼻の奥で何かが引っかかっているような不快な鼻息の音がモオルダアの耳にまで届いていた。
モオルダアはヘタなことを言って倉井を刺激したら今度こそ危ないと思って黙っていたが、倉井から注意は一度たりともそらさなかった。そうしていても、もし倉井が上にいるスケアリーに言われるままに彼に襲いかかってきたのなら、彼にはどうすることも出来ないのだが。
モオルダアは金具に引っかかってない残された足と両手で何とか倉井に応戦できないかと考えてみた。しかしこの状態ではどう考えても勝ち目はない。明らかにモオルダアよりも体重の重い倉井が上から襲ってくれば、体が自由に動かせたとしても対抗できるか怪しいところだった。何よりもあの巨大なナイフが問題だ。
それはつまりあのナイフさえなんとかなれば望みが出てくるという事でもあった。倉井がナイフを持っている右手はちょうどモオルダアの左足のすぐ上に来ていた。ワナワナしている手にはあまり力が入っていないようだ。この自由に動かせる方の足でナイフを蹴飛ばせば倉井の手からナイフを上手くはじき飛ばすことが出来るだろうか?
蹴飛ばしたナイフが宙を舞ってモオルダアの頭の上に落ちてくるという最悪の「笑える光景」もモオルダアの頭の中に浮かんだりしたが、ナイフをよけるぐらいの範囲で体を動かすことはできる。さもなくば手でよければ良い。手に刺さったりしたら痛いだろうが殺されるよりはマシである。
倉井はまだ気持ち悪い鼻息を響かせながらモオルダアの方をみていた。おそらくモオルダアの足は視界に入っていないだろう。モオルダアも彼の目をじっと見つめていた。恐怖のために倉井から目が離せないという感じで倉井の方を見ながら、左足をゆっくり動かした。膝を曲げた状態で股を持ち上げて、狙いを定めたら一気に膝を伸ばす。そうすれば効果的な蹴りが繰り出せるはずである。
問題はどこを狙うかだ。倉井の手首につま先が命中すれば一番良さそうだが、距離が近すぎて上手くいきそうにない。かといって手首よりも上では蹴りが弱かった場合は効果がありそうにない。失敗すれば倉井が激情してそこでジ・エンド。
もう一か八かやってみるしかないのだが、慎重になりすぎたモオルダアはここで大失敗を犯してしまう。あとは思い切って膝を伸ばして蹴りを入れたら良かったのに、間合いを計るために一瞬モオルダアの視線が足の方を向いてしまったのである。モオルダアを凝視していた倉井もそれに気付かないワケはなかった。そしてモオルダアがみていた自分の右手の下に目をやると、今にも手を蹴ろうとしているモオルダアの左足を見付けた。
「ぁぁぁあああ!」
倉井が奇声を発しながらまたナイフを振り回し始めた。今度こそはダメかと思ったが、モオルダアも最後まで抵抗するつもりで両手を顔の前に持ってきて防御の姿勢をとった。ただ倉井もまだモオルダアを刺し殺そうとしているわけではないようだった。彼にとって今のところ問題なのはモオルダアの右足である。それで倉井はナイフでモオルダアの右足を切りつけた。
「ウワァァー」
今のはモオルダアの悲鳴である。あまりにもリアルに恐ろしい状態なためにいつもの変な悲鳴ではなくて普通の悲鳴をあげている。
ナイフはズボンの上からモオルダアの脛を切り裂いた。肉のあまり付いていない脛を切られて傷口がどんな状態になっているか、と想像したモオルダアはもう一度悲鳴をあげた。痛みらしい痛みはまだなかったが、このまま悲鳴をあげ続けていたくなるようなそんな状況だ。
「そうですのよ!その調子ですわ!やれば出来るじゃないの」
また上からスケアリーの声が聞こえていた。
「んんんんん…」
それが返事なのか解らないが倉井は呻き声を上げた。
「そうですわ。良い考えがありますのよ。今度は両手を攻撃するんですの。そうすれば最後はゆっくりとどめを刺すことが出来るんじゃありません事?さあ、グズグズしてないで、やるんですのよ!」
「んんんんん…」
倉井はそう言われてもまだ躊躇しているようだった。しかし、先ほどモオルダアの足を切りつけたことで、これまでよりは思い切りが良くなっているようにも思えた。
「どうしたんですの?また悲鳴が聞きたいんでございましょ?あなたをさげすんだ目で見てきた人達の悲鳴が。あなたのことを少しも理解せずに笑いものにしてきた人達の悲鳴が」
倉井は階段を一段降りてモオルダアに近づいた。
「やめろ!やめろ!スケアリー!…スケアリー!」
モオルダアは叫びながら、何とか逃げようとまた右足をばたつかせた。しかし何の効果もないまま、倉井はさらにもう一段降りてきた。倉井の持っているナイフに自分の足を切った時の血が付いているのがモオルダアには解った。その刃は次に何を切るのか。言われたとおりに手を切りつけるのだろうか。
「スケアリー、許して、ごめんなさい!」
モオルダアは最後の手段として謝ってみた。もちろん何の効果もなかったようで上からは「殺すのよ!殺すのよ!」という声が聞こえてくるだけだった。そしてまた一段、倉井が階段を降りてきた。
するとその時、二階の部屋の奥の方で何か大きなものが倒れる派手な音がした。モオルダアはそんなことを気にしている余裕などなかったのだが、倉井の後ろにかすかに見えていたスケアリーの姿が見えなくなったような気がした。
「モオルダア!どこにいるんですの?」
良く解らないが消えたと思ったスケアリーの声が聞こえてきた。そして、こんどは「殺せ」とは言っていないようだ。
「スケアリー…」
モオルダアは半分諦めたような弱々しい声をだした。もう倉井はモオルダアの体の上にまたがっている状態なのだ。しかし、倉井はなかなか攻撃してこない。またスケアリーが「殺せ」と言ったらそこで終わりなのかも知れないが、一体あのスケアリーはどこに行ったのだろうか?
そう考えたときに良いタイミングで二階の部屋の前に誰かが現れた。モオルダアは最後の抵抗をすべく身構えてスケアリーが「殺せ」というのを待った。
「F.B.L.ですのよ!両手を挙げてこちらを向きなさい!」
上でスケアリーの声がしたが、モオルダアの思っていたあのスケアリーの声とは違っていた。そしてモオルダアの上でワナワナしていた倉井もハッとして姿勢を正した。夢から覚めたような表情という表現がふさわしいのか知らないが、倉井はなぜ自分がここにいるのか解っていない様子でもあった。そして自分の持っているナイフに血が付いているのに驚いて、思わずそれを放り投げた。
それは刃を下にして落ちてきて、ちょうどモオルダアの顔の真横にストンっといって刺さった。緊張感の漂う静けさの中にモオルダアのヒョァ!っという変な悲鳴がこだました。
「モオルダア、大丈夫ですの?」
スケアリーが聞いたが、モオルダアは大丈夫かどうか全然解らなかった。ただ大ピンチは去ったようなので「うん…」とだけ答えた。