20. 暗い倉井の家
モオルダアの目の前から期待通りのゴチャゴチャした部屋が消えて一瞬の混乱の後、モオルダアはしばらく目の前の暗い空間を眺めていた。すると彼は自分が足を頭よりも上にしたおかしな体勢で横たわっていることに気付いた。それから、少し前の記憶も蘇って来た。あの部屋に入って中を眺めて感心している隙に倉井が目の前までやって来た。しかし、足が悪いといっていたのになぜ?ということもある。ただ本当に足が悪かったかどうかモオルダアには解らない。
とにかくその後にモオルダアは両手でそれぞれの側の壁に手をついて体を支えようとした。階段と「二階の廊下」の境目にちょっとした取っ掛かりがあって、そこを上手く掴めたら体を支えることも出来たのだが、その取っ掛かりに気付いた時に手はそこを通り過ぎていた。
それよりもどうして体を支えようとしたのか?どうやらモオルダアの頭の中は相当混乱しているようだ。その前に何かが起きたから体を支える必要があったのだ。
目の前に倉井の姿を見付けた直後、モオルダアは倉井に突き飛ばされたのだ。どうしてそんなことになるのか解らないし、そんなことは少しも予想しなかった。そういう事が起きると人の頭は状況を理解するまでに時間がかかる。モオルダアが今いるところまで落ちてくるまでに階段を後ろ向きに1回転半しているはずだ。なぜか「1回転半」というところには自信があった。というよりも、階段の長さを考えたら一回転では下まで落ちないし、今の体勢を考えると二回転目の途中で止まったに違いないのだ。
回転数のところだけは冷静な分析をしていたモオルダアだが、もっと重要な事には気付いていないようだ。倉井はどうしてモオルダアを突き飛ばしたりしたのか。わざわざ家の中に招き入れたF.B.L.の捜査官が部屋に入るなり突き飛ばして階段から落とすのはなぜか。そこには明らかにモオルダアを傷つける意志、あるいは殺意があったに違いない。
ここでやっとマズい事になっていると気付いたモオルダアだったが、さらにまずい事になっているのに気がついた。なぜか体の自由が利かないのだ。無理な体勢で体を支えようとしたり、転げ落ちる途中で打ち付けたために腕の至る所に鈍い痛みがあったのだが、体のどこかに激痛が走るような事はなかった。ただ問題は手すりを支える金具にズボンの裾が引っかかっていることだ。自由が利かないのはそのためだ。
右足のズボンの裾がそこに引っかかったためにモオルダアは階段の一番下まで落ちずに、1回転半でそこに止まっているのだ。逆さづりというところまでは行ってないが、この体勢から状態を持ち上げてズボンの裾を外すのはちょっと苦労しそうだ。
しかし、そんなことを考えている場合ではない。上にいる倉井はなぜだか知らないがモオルダアを痛めつけようとしているし、もしかすると殺そうとしているのだ。モオルダアは腹筋に力を込めて上体を一気に持ち上げた。そして手すりにつかまってその体勢を維持した。
今は顔のすぐ近くに手すりがあるのだが、こうして見ると手すりを固定する金具は壊れていて完全に手すりから離れているようだった。そのL字型の金具は斜めに傾いていてちょうど上手くモオルダアのズボンが引っかかったのだ。モオルダアは手すりを持っている手と反対側の手をズボンを引っかけている金具の方に伸ばしてみたが、不自然な体勢で全身に力が入っている状態なので上手く体を曲げることが出来なかった。もし届いたとしても片手でそれを外すのは不可能にも思われた。この体勢からズボンを離すにはモオルダア自身がモオルダアの体を持ち上げてL字の部品からズボンの引き抜かないといけないのだ。
気が動転していたとは言え、モオルダアはこんな考えをしたことを自分で笑ってしまいそうになった。これはつまり自分の足の下に手を入れて自分を持ち上げれば宙に浮くことが出来るのではないか?と考える小学生的思考と一緒だったのである。
そんなことはどうでも良いのだが、どうしてもズボンを金具から外す必要がある。何か他の方法で。モオルダアは一度手すりを離して元の体勢にもどった。
こうしている間にも倉井がやって来てもおかしくないのだが、彼は一体何をしているのだろうか?あるいは緊急時の防衛本能により、モオルダアの時間の感覚が普段と違っているのかも知れない。これまでの行動は数秒の間の事だとしたら、まだ金具をズボンを引きはがす時間も少しは残されているかも知れない。
そんなちょっとした期待を抱いた時に上の階から声が聞こえてきた。それはあの薄暗い倉井の声ではなかった。
「何をグズグズしているんですの!?早くとどめを刺すんですのよ!」
モオルダアは自分の頭がおかしくなったのかと思った。聞こえて来たのはあまりにも聞き慣れた声だったのだから。顔を上げるとドアの開けっ放しになった部屋が少し見えた。少しといってもモオルダアの場所からだと部屋の天井しか視界に入ってこないが、そのまま見ているとそこへ部屋から出てきた倉井が現れた。それはモオルダアの思い描いたとおりのゲーム好きでパソコン好きで暗い部屋に一人でいるのが好きな年齢不詳だが中年と解る男の姿だった。その手にイノシシも殺せそうな巨大なナイフを持っている事を除けば。
「おい、落ち着け!落ち着くんだ!」
ナイフを目にしたモオルダアが大慌てで倉井に呼びかけた。一番落ち着く必要があるのはモオルダアに違いないのだが。
倉井はモオルダアの呼びかけにもほとんど放心状態で何の反応も示さなかった。ただ、彼が現れた時からずっと、ナイフを持つ手はワナワナと震えていた。それがさらにモオルダアの恐怖心を煽った。モオルダアはなんとかして金具に引っかかったズボンを引きはがそうと足を揺さぶってみたのだが、ズボンが外れることはなかった。それどころか、引っかかっていた金具がズボンに穴をあけて、L字の下の棒の部分にズボンがぶら下がっている状態になってしまった。モオルダアはさらにパニックになって足を揺さぶっていた。
「ダメだ…。出来ない」
階段の上の方で倉井が呻くように言ったのが聞こえた。何が出来ないのか知らないが、そこを気にするよりも早く体を自由にすることが先だ。モオルダアはまだ諦めずに足をじたばたさせていた。するとまた上の方で倉井とは違うあの声が聞こえてきた。
「ちょいと!何なんですの?!それくらいの事も出来ないで、あなたそれで本当に男だって言えるんですの?」
なぜだか解らないが、それはどう考えてもスケアリーの声である。
「スケアリー!」
モオルダアは思わず彼女の名前を呼んでしまった。それに反応したのかどうかは知らないが、上の方に新たな人影が出来た。
「さっさと殺すんですのよ!」
モオルダアは一度動きを止めて階段の上を覗き込んだ。
「出来ない!ダメだよ。許して」
「そうやってまたこのブタ小屋みたいな部屋でブタみたいな生活を続けるんですの?」
そこには倉井と、そして確かにスケアリーがいる。暗くてよく見えないがスケアリーであることは間違いない。しかし、彼女は何を言っているのだろうか?
「スケアリー!」
モオルダアはもう一度呼んでみたが、彼の言葉にスケアリーは反応しない。
「悲しいですわね。そうやっていつまでもみんなにバカにされたまま、惨めに年老いていって死んでしまうのね」
「違う!違う、違う!」
スケアリーの言葉に反応して倉井がナイフを振り回し始めた。
「やめろ!落ち着くんだ!」
モオルダアが慌てて倉井を止めたが、それはあまり効果がなかった。しかし、しばらくすると倉井は勝手に落ち着きを取り戻したようだった。
これで少しは安心できるのだろうか。モオルダアは今ここで何が起きているのか理解できないので、一度頭を下ろして元の逆さづりに近い体勢に戻ってみた。後頭部が階段のヘリに当たると、そこにイヤな感じのチクチクする痛みを感じた。そして、なんとなくその辺りの髪が濡れているような感じもした。
頭を打って切れたに違いない。後頭部が濡れているのは出血のためだ。それならもしかすると上で起きている事にも説明が付くかも知れない。自分は頭を強く打ってありもしないものがそこで起きているような錯覚を起こしているに違いない。そうでなければこれは、何とも危険だとも思うんだが、自分は死にかけているのかも知れない。そういえば上にいるスケアリーはいつもより美人じゃなかったか?そして、以前にも自分は美人になったスケアリーに殺されそうになったし。* つまり、自分が死にそうな時にはスケアリーは美人ということに違いないんだ。
モオルダアがおかしな事を考え始めた時だった。突然上で倉井が暴れ出した。言葉にならない声を発しながらナイフで壁を何度も突き刺し始めた。
「んぁぁあああぅあああぅあああをぁぁああ!!!」
倉井に何が起きたのか解らなかったが、その光景は恐ろしすぎた。奇声を発して壁を突き刺すたびに壊れた壁の板のかけらが上から落ちてくる。それが顔の上に落ちてくるたびに、これが死ぬ間際の幻影ではないとモオルダアは自覚した。
「そうよ!そうするの!さあ、下まで降りていって心臓を一突きすれば良いんですのよ。それは壁に穴を開けるよりもずっと簡単なことですのよ。ウフフフッ。そうすればあなたには新しい未来への道が開けるのよ。あたくしと一緒に、あなたが夢見た理想の世界が…」
「んんんっ…。ううううぅぅぅ…」
倉井の発作のような行動は一度収まった。しかしそれは決してモオルダアにとって良いこととは思えなかった。倉井は嗚咽にも似た呻き声を上げながらモオルダアの方を睨んだ。そしてゆっくりとモオルダアの方に向かって足を進めた。ヤバい。今度は本当に刺されそうだ。
「おい、やめろ!キミは操られてるんだ。そうだよ!あのゲームをやったんだろ?!な?」
倉井はモオルダアの言うことにはまったく反応しない。
「ちょっと、スケアリー!スケアリー!」
モオルダアが呼びかけているのは階段の上にいるスケアリーなのか、それとも別のスケアリーなのか解らなかったが、とにかくこうなったら思いついた事は何でも叫んでみるしかなかった。
the Peke-Files #014「マキシマム・ビューティー」の冒頭でなぜかモオルダアはスケアリーに殺されそうになる。(詳しくは全部読みましょう。) [戻る]