22. 薄明るい倉井の家
スケアリーの通報で警察が来るまで倉井を取り押さえておかないといけないので、モオルダアはしばらく階段で逆さになったままスケアリーにこれまでの経過などを話さないといけなかった。頭から血が出ているし、足には出来れば直視したくない大きな傷を負っているというのに酷い扱いだったが、倉井が逃亡する可能性があるので、そうするしかなかった。それに、そこにいるスケアリーが本物であると解ったのでモオルダアにはそれだけで十分だったかも知れない。もう命の危険はないのだし。
今はようやく警官達がやって来てモオルダアは救急隊員から応急処置を受けたところだった。モオルダアの意識が多少朦朧としているのは、あれだけの窮地を経験した後だったからだろう。頭に包帯を巻いたモオルダアの元へスケアリーが近づいて来た。
彼女の着ている白いブラウスは前面が真っ黒に汚れていた。そして、スカートのサイドの部分は腰の近くまで裂けていて、そこから太ももがちらちら見えていた。普段なら彼女が恐くてそんなことはしないのだが、モオルダアは朦朧としているのでその太ももをガン見していた。
「このスカートは弁償してもらいますわよ」
モオルダアに足を見られている事に気付いたスケアリーが言った。モオルダアはヤバいと思って視線をスケアリーの方に向けたが、そこには怒りをあらわにしたスケアリーではなくて、笑顔のスケアリーがいた。おそらく冗談だったに違いない。モオルダアも多少引きつった感じだったが笑顔を返した。
スケアリーはモオルダアから少し遅れて倉井の家にやって来たのだが、その時に中から悲鳴が聞こえてきたらしい。玄関に鍵がかかっていたため窓から侵入しようと家の周囲を回ったのだが、一階の窓は全部開かなかった。そこでスケアリーは塀によじ登り、そこから一階の窓の上にある雨よけに移動して、そのすぐ上の開いている二階の窓から侵入したということだ。そのときスカートが邪魔だったので、自分で脇を破ったということだった。それからブラウスが黒くなっているのは雨よけの上に溜まった汚れのせいである。
屋根を触る機会のある人がいるか知らないが、触って見ればそこがどんなに汚れているか解るだろう。真っ黒とはこのことだ、という感じで触った指が見事な黒さになる。その後はいつまでもその手で触るものが黒くなるし。とにかく今はモオルダア同様に、スケアリーもくたびれた外見になっていた。
「ついでにクリーニング代も必要なんじゃないか?」
モオルダアにしては珍しくまともな事を言ったが、それもおそらくショックを受けた後だからだろう。それよりも、スケアリーは自分の服がそれほどまでに汚れていることにはまだ気付いていなかったようで、確認してみて服の黒さに驚いていた。それからちょっとイラッとしてしまいそうになったが、目の前の包帯を巻かれたモオルダアを見たらそんな事を思っている場合ではないと思った。
「あなたの言っていた女性というのは、何だったんですの?あたくしはそんな方の姿は見ませんでしたのよ」
スケアリーは事件の話を始めた。
「いや、そうだけど。でも確かにあそこには誰かがいたんだ」
「そして、あなたを殺せと命令したんですのね。でもおかしいと思いませんこと?どうして直接あなたを襲わなかったんですの?あなたは身動きが出来なかったんでございましょ?」
「出来るのならやっていると思うけどね。でもあれがあそこにいた人間ではなくて、空間に投影された映像だとしたら、ボクを殺すことは出来ないよ。だから倉井に命令してたんだよ」
それは、これまでモオルダアの主張してきた説とほぼ一緒である。もしも謎のゲームが存在して、空間に映像を投影できる技術があるのならそうかも知れないが。
「モオルダア。あなたきっと錯覚を起こしていたんですのよ。あたくしが部屋に踏み込んだ時にテレビから音が出ていましたのよ。ちょうど窓のすぐ内側にあったものですから、あたくしが部屋に乗り込んだ時に倒れて壊れたようですけれど。きっとそのテレビから出ていた声が倉井に命令しているように聞こえたんですのよ。それに、あなたはずっと謎のゲームや幻覚の事を信じていたんですし。誰だって命の危険にさらされたらパニックにもなりますわ」
そう言われると、あれが錯覚だとも思えたのだがモオルダアはどこか納得できないところがあると考えていた。それに肝心の倉井は何と言っているのだろうか?
「それなら倉井に聞けば解るはずだよ。もしも、倉井がそれを認めれば最初の立て籠もり事件の時の女性の事も説明できるし」
「そうですわね。ですから、あたくしも最初に倉井に聞いてみたんですのよ。ですけど、今のあの様子じゃ…」
「倉井がどうかしたの?」
「あれは完全に心神喪失状態ですわよ。一時的なものだったら良いのですけれど」
スケアリーの表情が暗くなっていった。しかしモオルダアにはまだ聞くべき事があった。
「それで、ゲームは?あのゲームはあった?」
「あることはありましたわよ。ですけど、もう読み取りが不可能なほどディスクは粉々にされていましたわ」
それを聞いてモオルダアまで暗くなっていった。きっとあの女が。あのスケアリーそっくりな女が命令したに違いない。倉井を催眠状態にするディスクの証拠を消した上で襲わせたに違いない、とモオルダアは思っていた。
「ですけど、モオルダア。ゲームが粉々になっていたんですし、原因がゲームにあると考えるのはおかしくありませんこと?ゲームがなければ催眠状態にも出来ないですし、それにあなたの言う幻覚というのも不可能ですわ」
「そうとは限らないよ。一度催眠状態を解いても後から何かのきっかけを与えると、また催眠状態にすることができるし」
「ですけど、そのきっかけはどうするんですの?」
「さっき、テレビが点いていたと言ったよね。今はテレビを受信するのにカードが必要だよね。あのカードがあればある程度個人を特定して情報を送ることも可能だよね。まあ個人を特定することは出来ないとしても、あのカードには固有の番号が割り当てられているし、誰がどの番号のカードを使っているかが解れば、そのカードを使っているテレビだけに情報は送れるよ」
「つまり、催眠状態にさせるきっかけをテレビで送っていたってことですの?」
途中の怪しげな点は除いて、特定のテレビに特別な情報を送ることは可能なのではないか?と思ったスケアリーは少しゾッとしていた。
モオルダアはさらに得意になって説明を続けるのかと思ったが、ただ頷いただけでそのまま黙ってしまった。もうこれ以上証拠は残っていないとなんとなく解っていたからである。うつむき加減で考え事をする優秀な捜査官のポーズをとっていたモオルダアだったが、救急隊員がやってきて彼の座っていた担架ごと持ち上げられて、危うく落ちるところだった。救急隊員はモオルダアに向かって「大丈夫ですよ」と言ったが、一体何が大丈夫か解らないままモオルダアは救急車に乗せられて、そのまま病院へ搬送されていった。
モオルダアの乗った救急車を見送ったあと、スケアリーは救急隊員からふんだくった白衣を着てスカートの裂け目を隠した。そして彼女はしばらく倉井の家を調べてみようと思った。もう何もないと解っていたのだが、なぜかそうしないと気が済まなかったのだ。