「マキシマム・ビューティー」

21. 駅前

 モオルダアは急いで駅前の広い通りを歩いていた。通勤ラッシュのピークはとうに過ぎてそこにはあまり人影がない。歩いているところから駅の階段までが良く見渡せるのだが、モオルダアは駅の方からこちらへ向かってくる人物に気付いた。今この人物に関わるのはあまりにも面倒だ。しかし、その人物はモオルダアを見つけると彼の方へ近づいてきた。

 どうやら気付かないふりも出来ないようだ。この人物は明らかにモオルダアに会うためにこの駅で降りたに違いない。モオルダアは向こうで小さく手を振る中場の方へ向かって軽く会釈をした。いったいなんの用があるというのだろうか?中場は双江さんが美人に戻らなかったことに関して苦情を言いに来たのか。それとも二人の仲が険悪になってそれをモオルダアのせいにしようとでも言うのだろうか。どっちにしろ、モオルダアはそんなことに構っていられる時間はないのだ。

 モオルダアはさらに歩く速度を上げて中場の方へ近づいていった。そして中場の目の前まで来ると「やあ、中場さん。こんなところでお仕事ですか?それじゃあ」と言って脇を通り過ぎようとした。

「ちょっと!モオルダアさん。そうじゃないですよ。私はあなたに用があってきたんです」

モオルダアのすれ違い作戦は大失敗。中場はしっかりとモオルダアの上着の袖を掴んでいた。

「急いでるようですが、私はあなたにお礼を言いに来たんです」

捕まってしまったモオルダアであったが、この思いも寄らぬ中場の言葉に驚いて、中場の目をまじまじと見つめてしまった。お礼って、なんのお礼だ?

「モオルダアさん。あなたは素晴らしい人ですよ。昨日は電話で失礼なことを言ってしまって、まったくお恥ずかしい」

中場の言うことがまだ良く解らないモオルダアはそのまま彼の話を聞いた。

「あれから双江がエフ・ビー・エルに出向いたそうですね。それで双江が戻った後、私たちはちょっとした口論になったんです。双江は私がエフ・ビー・エルに妙な捜査を依頼したのを気に入らなかったみたいですけど。あれは全部私が双江を愛しているからこその行動です。ああ、そういえば私はまだあなたに本当のことを言っていなかったですね。私は最初にあなたにあった時、あんなブスとは結婚できないなんて言いましたけど、あれは嘘なんです。いくら純愛ブームだからって、恋人のためにエフ・ビー・エルに捜査を依頼するなんてちょっと恥ずかしいから、だからああやって上辺だけの冷たい人間のフリをしてみたんですよ」

モオルダアは「へえ」と気のない返事を返した。それでなんだというのだろうか?

「私があなたに捜査を依頼した本当の理由は、双江の顔がおかしくなっていくのを双江自身が気にしていると思ったからなんです。私だって始めは気にしていましたよ。でも私は双江を愛していたんです。見た目だけじゃなく双江という人間を心から愛していたんです。だから私には双江の顔なんかどうでもよかったのです。でも、双江の方が自分の顔のことで悩んでいるのではないかって思ったんです。悩み事があれば表情だってどんどん曇っていくでしょ?私はそんな双江をみているのが辛かった。だからエフ・ビー・エルに相談に行ったんですよ」

熱っぽく語る中場にモオルダアはなんだか悲しい気持ちになっていた。昨日双江にあった時の話では、双江が中場のことを恋愛の対象として見なくなったことが原因で、中場には彼女が美人でなくなったように見えた、ということなのだ。おかしいとは思ったのだが、ここは早く話を終わらせたいのでモオルダアはまた「へえ」とだけ返事をした。

「おかしいと思っていますね。私も知っていますよ。昨日双江と口論してる最中に双江から全部聞きましたよ。双江は私を愛していなかった。だからボクの目には双江が不細工に見えるようになったんです。私も始めはショックでしたけど、もうその時はすでに二人とも白熱していましたし、私は感情が赴くままに双江に言ったんです。私がどれだけ双江のことを気にかけているか。どれだけ双江を愛しているか。今思うと、もう恥ずかしくて絶対に口に出来ないような台詞もたくさん喋っていましたよ。でもそれが良かったんでしょう。私たちの間には再び愛の炎が燃え上がったんです!そして再び双江は美人になったんです!」

今だって恥ずかしい台詞だらけなのだが。モオルダアはなんとなく話が飲み込めてきたし、しかもどうでもいい話を聞かされた感じがして気分が悪くなって来た。中場はまだ何か喋っていたが、モオルダアはもう聞いていなかった。早く話が終わることを祈りながら、駅の階段の方に目をやった。いっそのこと走って逃げてしまおうか?そんなことを考えていると、階段の上から双江が降りてくるのが見えた。「さらにややこしいことになってきた」モオルダアは、中場の次は双江からおのろけ純愛話を聞かされるのかと思ってゾッとしていた。

 階段をゆっくりと降りてくる双江は笑っている。それもそうであろう。なんだか知らないが、この二人は愛の炎を燃え上がらせているということだから。

「あれは双江さんじゃないですか?」

モオルダアは夢中で喋っている中場に言った。中場は一度話を中断しなければならないことを残念そうにしていたのだが、一度振り返って双江の姿を確認すると嬉しそうにしてモオルダアの方へ向き直った。

「あれ、何でだろう?今日は家にいるって言ってたのになあ?彼女もあなたにお礼を言いに来たのかな?ねえ、綺麗になったでしょ?ああ、でもモオルダアさんには普通の人にしか見えないのか。ボクらは愛し合っているんだから、彼女はボクにとって誰もかなわないぐらいの美女なんですよ」

中場は弾むような口調でこう言っていたが、モオルダアも双江が少し綺麗になったような気がしていた。いや、気がするというよりも、明らかに昨日とは違う顔になっているのだ。美人になっている。遠目には良く解らなかったのだが階段を下の方まで下りてくるとその顔がよく見えるようになってきた。その美しい顔は相変わらず笑っているのだが、それは幸せなニコニコというよりは薄気味の悪いニヤニヤという感じだ。いったい双江に何が起きたのだろうか?それに双江が階段を一段下りるたびに何か重たい金属のようなものが階段にぶつかる音がしている。よく見れば双江の片腕は体の後ろの方にまわっていて、その手で何か重いものを引きずりながら歩いているようだ。

 中場はまだ喋り続けていたが、モオルダアは双江が気になってその話はほとんど耳に入っていなかった。双江が階段を降りてゆっくりとこちらへ向かってきた。さっきまでしていた音は、ガリガリとアスファルトをこする音に変わっている。やはり双江は何かを持ってここへやって来た。何かすごく重くて、すごく堅いものを持って。

 双江の目は真っ直ぐに中場の方へ向けられている。ニヤニヤと笑いながらほとんどまばたきもせずに。モオルダアと向かい合っている中場にはなにも解っていない。この異様な光景をモオルダアはただ唖然として見つめているだけだった。双江がそのまま中場の背後までやって来ると、手に持っていたものをゆっくりと頭上に振りかざした。それは大木でも切り倒せるような巨大な斧だった。

 モオルダアはいったい何が起ころうとしているのか理解できないまま、その巨大な斧を見つめていたが、太陽の光が反射してその斧がきらりと光るとやっとモオルダアはこれから怒るであろう惨劇を予測できるようになった。この斧は今まさに中場の脳天目がけて振り下ろされようとしているのだ。

 双江がニヤニヤした顔を少しも変えずに斧を振り下ろそうというとき、モオルダアはとっさに中場を突き飛ばした。巨大な斧がアスファルトを叩く音が耳に突き刺さった。それからモオルダアは頬に何か小さななま暖かいものが当たったような気がした。

 まだ何が起きているのか良く解らないモオルダアであったが、とにかく中場は大丈夫だったようだ。中場は尻餅をついた状態で倒れていて、声にならない悲鳴をあげながら双江の方を見ていた。そしてその体勢のまま少しでも双江から離れようと後ずさっていく。革靴を履いた足首から先だけを残して。

 恐ろしいものを見てしまったモオルダアはもうすでに動けない。腰が抜けている。頭をかち割られることはなかったが、中場は足首から先を斧の一撃によって切断されてしまったのだ。残された足のまだ生きている筋肉が痙攣でも起こしてそれがぴくりと動きでもしたら、モオルダアはその場に卒倒していただろう。その足を凝視して動けないモオルダアは双江の甲高い笑い声にハッとして双江の方を振り返った。今度はモオルダアの方を見ている。けたけたと笑いながら双江はモオルダアを見ていたのだ。

「全部あなたのせいなのよ!」

双江はそう言って、もう一度斧を頭上に振りかざした。モオルダアはただその斧が振りかざされるのを目で追うだけだった。あれが頭に当たったらどのくらい痛いだろうか?それともそんなことを思う間もなく…。モオルダアが最後まで考えるよりも先に双江の両腕に力が入るのが解った。モオルダアはただ目をつむることしかできない。おきまりの「ごめんなさい」という台詞さえ出てこない。

 何かが破裂したような乾いた音が耳の中にこだました。これは斧が頭に当たった音なのか?ああ、もうダメだな。こんなところでおしまいだ。このあと真っ暗になってそれっきりボクは…。あれ、なんだかやけに時間がかかるなあ。人は死ぬ前にいろんな事を思い出すとか言うけど、これはそのための時間なのかな?じゃあ急いでいろいろ思い出さないと。といってもなにも思い出せないや。

 モオルダアが目を開けると前には双江が倒れていた。胸には銃弾を受けた傷があり、そこから血が流れている。モオルダアは自分の両手を見て双江を撃ったのが自分の銃でないことを確認すると、辺りを見回した。だいたいモオルダアのモデルガンには体に穴が空くほどの威力はない。

「おい、モオルダア!何をやっているのだ!」

モオルダアが声のした方を見るとスキヤナーと何人かの警官達が彼に近づいてきた。スキヤナーの手には銃が握られている。

「あ、副長官。なにしてるんですか、こんなところで?」

いまだにパニック状態から抜け出せないモオルダアは変な質問をしている。

「それより、副長官。その銃は本物ですか?」

「ああ、まあね。久々に撃ったから心配だったけどね。まあはずれてキミに当たったとしてもどうせキミはあの世行きって感じだったからね。そんなことより、これはいったいどういうことなんだ?」

「えーっとですねえ」

モオルダアは慌ててここで起きたことを思いだしていた。優秀な捜査官が腰を抜かして今にも殺されるという時に何も出来なかったなんて、知られてはまずいのだ。