「マキシマム・ビューティー」

33. 真夜中のビューティー・アップ社

 ビューティー・アップ社のビルはもうほとんど明かりが消されていて、周辺にもほとんど人通りはない。その暗がりの中を白い人影がビルの入り口に向かって動いていく。それは入院着を着た双江さんだった。彼女がまだエッフェッフェドリンの影響下にあることは彼女の容姿をみればすぐに解る。入院着を着て裸足で外を歩き回る双江さんは前にもまして美人になっていた。

 双江さんは、ビルの入り口のガラス扉を開けようとしたがそこは鍵が掛かっていた。それに気付くと彼女は扉から少し離れると、そこから扉に向かって突進した。彼女の体が扉にぶつかった瞬間、ガラスに無数のひびが入り放射状に広がったかと思うと、次の瞬間にはバラバラに砕け散った。双江さんはガラスの破片とともにビル内へ転がり込んだ。ガラスの破片が額を切ったのか、双江さんは血を流していたが、何ともないという感じで立ち上がると、そのまま奥へと入っていった。

 これだけ派手な侵入者があるにもかかわらず、警報機は鳴らなかった。このビルに警報機が設置されていないわけではない。この夜に限ってなぜか警報機が動作しなかったのだ。

 先程からこの様子を見ていたものがいる。彼はビルから道路を挟んだ反対側の歩道にある街路樹の影に隠れていたが、双江さんがビルの中へ消えるとその後を追うようにビルの中へ入っていった。


 それから何分もしないうちにスケアリーの車がビューティー・アップ社の前に到着した。車の中にいるモオルダアからもビルの入り口の扉が壊されてガラスの破片が散乱しているのが解った。モオルダアは車が止まるなり車を降りると一度ビルの上の方を見上げた。最上階にある一室だけ明かりがついている。これを見るとモオルダアは慌ててビルの中へかけていった。

「ちょいとモオルダア!いったい何がどうなっているんですの?」

後ろからスケアリーが聞いたがモオルダアにはほとんど聞こえていなかったようだ。これまでほとんどちゃんとした説明をされていないスケアリーはムッとしながら車を降りたが、ビルの入り口の状態を見て何か事件が起きていることは解った。


 社長室のドアが開くと一芽実田社長は静かに顔を上げて入ってきた人物を確認した。彼女の前にある机は綺麗に整頓されていて、彼女がこの時間まで職務に追われていたという感じはしない。彼女はこの来客を待っていたのだ。

 一芽実田社長はドアのところで薄笑いを浮かべている双江さんを見るとゆっくり立ち上がった。

「お待ちしておりました」

一芽実田社長は笑顔でこういったが、目には涙をいっぱいにためていた。彼女は双江さんを知らない。しかし、ここに誰かが来ることは解っていて、それで夜遅くまでこの部屋で待っていたのだ。

「私のしたことで貴方にまで迷惑をかけてしまいますね。ホントになんて謝ってたら良いのか。でもきっとあのエフ・ビー・エルの捜査官なら貴方を助けてくれるはずです。貴方には何の罪もないことを証明してくれるでしょう。…こんなことを今の貴方に言っても理解できないでしょうけど」

双江は一芽実田社長がこう言うのを聞いているのかどうか解らない。気味の悪い薄笑いのまま、虚ろな瞳を一芽実田社長に向けていた。そして間もなく一芽実田社長に襲いかかった。一芽実田社長は双江が向かってくるのが解って目を閉じると、あふれ出た涙が彼女の頬にひとすじの線を描いて流れていった。


 モオルダアはエレベーターの中でなかなか最上階に到達しないエレベーターの表示を眺めてイライラしていた。もちろんエレベーターはいつもどおりの速さで動いているのだが、今の彼にはこれほど遅いエレベーターはなかった。その中でモオルダアはふと気付いた。スケアリーが一緒にいない。彼は上着の下のモデルガンに手を当てて考えた。もし、双江さんがモオルダアに襲いかかってきたらこんなオモチャでは太刀打ちできないだろう。本物の銃を持っているスケアリーがいたほうが…。そこまで考えたが、それは良くない考えだった。もし誤って双江さんを殺してしまうようなことがあれば、この事件の証人がいなくなる。

 やがてエレベーターは最上階に到達してドアが開いた。ちょうどそのときガラスの割れる音と、それに続いて銃声が聞こえた。モオルダアはエレベーターを飛び出して社長室へ走った。

 社長室の開けっ放しのドアから冷たい風が廊下の方へ入ってきていた。さっきの音は社長室の窓ガラスが割れた音に違いなかった。何かが窓ガラスにぶつかってガラスが割れたのだ。そして、その何かはそのまま下に落ちていったのかも知れない。いったい何が?モオルダアは頭の中の恐ろしい光景を振り払うことが出来なかった。

 開けられたドアから社長室の中を覗くと、まず倒れている双江が見えた。彼女にはもう奇跡は起こらなかったようだ。額の真ん中に穴を開けた双江が横たわっている辺りは彼女の流した血で赤く染まっていた。ここでいつもなら腰を抜かしかねないモオルダアだがドアの影に立っていた人物に気付いてそれどころではなかった。

「クライチ君!?」

モオルダアが絞り出すようにしてかすれた声を出すと、クライチ君が振り返った。明らかにうろたえている彼の手には拳銃が握られていた。

「仕方なかったんです。こうしなければ私も…」

こう言うクライチ君の表情は極度の緊張のためか、ほとんど固まっているようだった。


 モオルダアにおいて行かれたスケアリーはビルの一階でエレベーターが降りてくるのを待っていた。ここには他にエレベーターが無く、階段へ続くドアは鍵がかかっていて使えなかったのだ。スケアリーには最上階で何が起きているのかまったく想像できなかったが、それだけに不安は増していった。彼女も先程のモオルダアのようになかなか降りてこないエレベーターの表示を見ながらいらついていた。

 しかし、彼女が最上階に上がる前に全ては終わってしまったのである。ビルの出入り口のすぐ外で大きな音がした。それは何か大きな物が落ちてきて地面と衝突した音だ。スケアリーは驚きで全身の筋肉が一瞬硬直したのを感じたが、すぐに体が反応して彼女は出口の方へ向かった。

「あらまあ…」

青ざめたスケアリーは片手を口にあてて立ちつくしてしまった。彼女の前には最上階の社長室から投げ出された一芽実田社長が横たわっていたのだ。

34.

 一時間もするとビューティー・アップ社のビルの周りは警察やエフ・ビー・エルの人や車でごった返しという感じだった。中には数人の報道関係者も来ていたが、これは彼らにはさほど興味を惹く事件ではないようだ。新聞の一面やテレビのトップニュースにするには少し派手さに欠けるということなのだろう。ただしビル最上階から落下したのがビューティー・アップ社の一芽実田社長だと解れば、相当な騒ぎになるかも知れない。

 モオルダアは先程から警察に事情を聞かれている。警察の質問に答える彼の表情にはほとんど活力が感じられない。これで終わりなのだ。双江さんと一芽実田社長が消えてエッフェッフェドリンなんてものは誰にも知られることはないだろう。それが、この事件を影であやつる人間の書いた筋書きだったのかも知れない。いずれにしても今のモオルダアは無力だった。

 モオルダアは警察にこう話した。「ビューティー・アップ社の前を通りかかるとビルの扉が壊されているのに気付いたので、エフ・ビー・エルの捜査官として中を調べた。その時、唯一明かりのついていた最上階の部屋へ行くともう全ては終わっていたのだ」そう話して、それ以上は何も話さなかった。彼が手に入れた証拠や彼の推理を話せば、彼が変人あつかいされるだけ。なんの根拠もないそんな話はするだけ信用されなくなるのだ。

 失意の中にあるモオルダアがこの事件現場の慌ただしい雰囲気の中で行われた最後の隠蔽行為に気付くことはなかった。彼がうつむきかげんで警察と話している間に、警察でも医療の関係でもない車に双江さんと一芽実田社長の遺体がのせられてそのままどこかへ消えていったのだ。

 一方、同じ頃に事情を聞かれていたクライチ君もだいたいモオルダアと同じことを警察に話したようだ。それはなぜだか知らないが、ビューティー・アップ社の前で張り込んでいたことは話さなかった。ただ「自らの身分を名乗って双江を制止させようとしてもそれを聞かず、彼は襲われそうになったので銃の引き金を引いたのだ」というところは強調して話した。

 そして二人と同じく事情を聞かれていたスケアリーだったが、彼女は警察の質問に真面目に答えている場合ではなかった。少し離れたところにいるモオルダアとさらに離れたところにいるクライチ君を交互に眺めながら、警察の質問には適当な返事をしていた。ここ数日間の記憶があいまいなスケアリーはその間に何が起きていたのか気になって仕方がない。あの蔵衣地という捜査官は何者なのか?それからモオルダアはどうしてあんなに落ち込んでいるのか?

 何を聞いてもスケアリーからは手応えのある返事がこないので隣にいた刑事はあきれていたが、一通りの質問が終わると形だけの礼を述べてその場を立ち去った。ここの現場にいた三人が三人ともエフ・ビー・エルの捜査官であるので、警察もそれほど彼らに疑惑の目は向けていないのであろう。スケアリーはそれにも気付かずに、その場でモオルダアとクライチ君を眺めていた。