10. エフ・ビー・エル・ビルディング、13階
やばい。やばい。絶対に怒られる。そう思いながらモオルダアは13階にあるスキヤナーのオフィスに向かっていた。スキヤナーに怒られるぐらい大したことはないのだが、バイトの雑用係になった最近、モオルダアはなんだか自分の立場が凄く弱くなったように思えてならないのだ。それにペケファイルは再開されそうもないし、スケアリーはおかしくなって失踪してしまうし、突然パートナーになったクライチ君はいい加減だし。このままではエフ・ビー・エルでの彼の立場はますます弱くなっていくばかりである。
こういう状況をどうやって切り抜けたらいいのか考えていたモオルダアであったが、彼にそんな器用さはない。少なくとも彼が知恵を絞って考えることは現実世界ではほとんど通用しないのだ。彼が優秀なのはあらゆる偶然が重なって彼に味方する時だけ。彼は運だけで生きているのだ。
いくら考えてもこの状況への対処法は思い浮かばない。モオルダアはとりあえず怒られる前にこっちが怒ってみよう、と良く解らない作戦を考えた。「怒るって、いったい何を?」そんなことは解らない。モオルダアはスキヤナーのオフィスの扉に手を掛けて一度躊躇したが、思い切って扉を開けた。
「いったいどうなっておるのですか!これでは捜査もなにもありませんではありませんか!」
全然意味が解らないが、モオルダアは普段から怒ることに慣れていないので、演技でだって怒れるはずはない。モオルダアのおかしな様子に唖然としているスキヤナーを見て彼はさらに続けた。
「あれはいったい何なんですか!」
モオルダアは怒っているフリをしながらも、何について怒っているかぐらいは決めておけば良かった、と思っていた。
「これとかあれとか、全然意味がわからんぞ、モオルダア」
スキヤナーに言われて、モオルダアは少しの間返す言葉がなかったが、とりあえずここは彼のあまり動かない偽りの怒りにまかせて話すしかなさそうだ。
「ええと。ですから、あれですよ。そう。あの捜査官。クライチ君はいったいなんだって言うんですか?」
「クライチ君てキミと今回の事件の捜査をしてる人だろ?」
「そうですよ。あんな役立たずをボクのパートナーにしたのは、あなたなんでしょ?」
スキヤナーはモオルダアが見当違いの相手に腹を立てているのに気付いたのかだんだん不機嫌になってきた。
「そんなことは私の知ったことじゃないよ。それにいったいどういうことだ?私がキミを呼んだのにいきなり怒ったりして。失礼じゃないか!」
「あれ、そうなの?クライチ君はあなたの指示でボクのところに来たんじゃないの?」
「エフ・ビー・エルには私の他にも偉い人がいることぐらいキミも知ってるだろ?そんなことより、キミに会いたいという人がさっきから隣の部屋で待っているんだがね」
怒られないように、逆に怒りながら入ってきたモオルダアだったが、そんなことは全然意味のないことだと解った。スキヤナーがモオルダアを呼んだのは怒るためではなく来客を知らせるためだったようだ。スキヤナーの見つめる先にはガラス越しに一人の女性が座っているのが見える。
「なんだろう?ボクのファンかな。エヘヘヘッ」
モオルダアは決まりが悪そうに気味の悪い笑いを浮かべながら隣の部屋へつづくドアを開けた。
11.
部屋に入るとその女性が市後双江であることはすぐに解った。彼女は一点を見つめるわけでもなく見つめてじっと座っている。「これはまずいことになった…」モオルダアは再び困難な状況に立たされた。さっきはただの勘違いだったが、双江がここに来ているということは本当にまずいことになったに違いない。とりあえず謝罪するしかない。モオルダアは後ろ手にドアを閉めるなり言った。
「このたびはまことに遺憾であり心外でありつつも、これは全て新人捜査官クライチの責任でありまして、私モオルダアめはなにもいたすところなくして…」
怒る時も変だったが謝罪はまったく意味をなしていない。双江は少し困惑した感じで一度モオルダアの方を見たが、すぐにまた目線を元に戻した。
「あなたモオルダアさんですね?」
双江はモオルダアの方を見ずにこういった。この声の感じからするとそれほど「まずいこと」にはなっていない感じがした。まさか、モオルダアの謝罪が功を奏したのか?それはあり得ない。
「まあ、そうですけど」
モオルダアは少し安心して双江とテーブルを挟んだ向かい合わせの椅子に腰掛けた。
「中場がそうしろって、あなたに依頼したんでしょ?」
「ええ、まあ」
モオルダアは生返事をしながら双江の顔を覗き込んでいた。その顔は中場が「ブス」と言っていた写真の顔と同じものだった。しかし、この顔を「ブス」というのは少し酷すぎる。確かに中場に見せられた一年前の写真に比べたら美人ではないが、それは普通の顔だ。好みによっては全然オッケーな顔だ。モオルダアは双江の顔を覗き込みながらそんなことを思っていた。
「でも、そんなこと捜査するだけ無駄ですよ。私の顔は今あなたが見ているとおりです。一年前もそれよりも前も。ずっとこの顔なんです」
モオルダアは自分が双江の顔を覗き込んでいることがばれていたので、慌てて目をそらした。しかし、双江の言うことは真実なのだろうか?それでは中場に見せられた一年前の写真はどうなるのだろう?モオルダアが疑問に感じていることを悟ったのかは解らないが、双江は冷ややかな感じで話し始めた。
「あなたも中場と同じなんですね。あの人、私の顔が最近急に不細工になったと思ってるんでしょ?あの人は私に隠してるみたいですが、そんなことは私にだってすぐに解りますよ。あんなサプリメントを飲ませたりして。あんなもので私が美人になるはずありませんよ。ホントにバカなんですよ。あの男は」
完全に双江ペースで話が進んでいる気がしたがモオルダアには特に言うこともなかったので、そのまま彼女のペースで話がつづくのもやむを得ない。そんな感じであったがモオルダアは一応聞いてみた。
「あの、そのサプリメントってビューティー・アップ・サプリのことですか?あれをあなたに渡したというのはおかしいですねえ。中場さんはあなたには絶対に知られないように捜査をしてくれ、と私に言ったんですよ」
「だったら、私に知られないように捜査してくれたらいいじゃないですか?」
モオルダアは痛いところをつかれたようである。しかし双江はそれほど気にしていない。
「別にいいですよ。どうせ捜査したところでなにも解決しませんし。それに私、あの人が私に関していろいろ調べようとしてることも前から知ってましたし」
「それ、どういうこと?」
モオルダアは双江が思わせぶりな感じで喋っているのでさすがに苛ついてきた。
「あの人はなんにも解ってないんですよ。一年以上も一緒にいるくせに。それはこういうことです」
そう言って双江はカバンから携帯電話を取り出すと携帯についているカメラのレンズを自分に向けてその手を顔の斜め上に持っていった。しばらくレンズの向きを微調整した後、シャッターを切ったことを知らせる電子音が鳴った。
「こういうことなんですよ」
双江はたった今カメラに撮った携帯の画面に映る自分の顔をモオルダアに見せた。その写真を見たモオルダアはハッとして目の前の双江とカメラの中の双江を見比べた。
「これで解ったでしょ?」
こう双江に言われてもモオルダアはまだ信じられないといった感じだった。
「このカメラは最新技術で作られてるのか?」
モオルダアの反応はまったく的はずれだったが、双江はそれを冗談だということにして先を続けた。
「その角度で撮ると、私は美人に写るんですよ」
「ああ、そういうことか」
モオルダアはもの凄いカメラを発見したと思って盛り上がっていたが、やっとからくりが解ったようだ。それに気付いてもモオルダアの驚きには変わりはない。携帯に映されている双江の顔は中場の持ってきた一年前の写真とまったく変わらない美人の写真なのだ。ただ、これだけではいろんな事の説明にはならない。
「写真のヒミツは解りましたけど、それじゃあなにも説明できませんよ。どうして中場さんは一年以上もあなたの本当の顔に気付かなかったんですか?」
モオルダアが聞くと双江は一度顔を下に向けて穏やかな微笑みを浮かべてからモオルダアの方に向き直った。
「それは、恋が盲目だからですよ」
「つまり、中場さんの目にはあなたが実際以上に美しく見えていた、ということですか?」
そういいながら、モオルダアには納得がいかなかった。フィアンセが「ブス」になったから結婚できないとまで言っていた中場に関しては絶対「恋は盲目」なんてことはあり得ないのだ。モオルダアは何かを言いたげにしていたが、肝心の言葉が出てこない。それを見ていた双江が言った。
「本当は私にも責任があるのかも知れません。実を言うと私あの人のこともう好きじゃないんです。出会った頃はよかったんですけどねえ。お互いがお互いに夢中って感じで。あの人は今でもそうみたいですけど、私はもう全然あの人に興味がありません。私のあの人に対する熱が冷め始めていた頃から、あの人は私の本当の姿が解るようになったんじゃないかしら」
ということは、二人がお互いに熱々でないと「恋は盲目」は成り立たないということなのか?モオルダアにはよく理解できない感じの話である。
「私、あの人に初めて会う前にメールで写真を送っておいたんです。もちろん美人に写る角度で撮った写真です。それを見てあの人はすでに私に夢中だったみたいなんですよ。それで私も会ってみると、結構優しいし、お金も持ってるし。私たち、すぐに良い感じになったんですよ。でも優しいのは始めだけで、あの人の嫌なところはいろいろ見えてくるし、それ以上の良さといったらお金ぐらい。いっそのこと別れてしまいたかったけど、そろそろ私も年齢的にリミットでしょ?ほら、適齢期とか、勝ち組とか負け組とか。そんなのになるのは嫌だから、とりあえず結婚ということになって、そしたらあの人がこんな捜査を依頼するものだから。ホントに男の人ってどうしてこうなのかしら」
モオルダアは黙って聞いていたことを後悔した。双江が長く喋っていたのでモオルダアにはなんの話だか解らなくなってきていた。
「ということは、あなたは結婚したくないけど中場さんと結婚したいということですね。でもそうなると中場さんがあなたのことを美人だと思えないことで都合が悪い、という感じですよねえ」
「そういうことです。だからあなたからあの人にうまいこと説明してくれませんか?私はもう愛なんていりませんから。とりあえず形だけ結婚したらあの人の財産で楽しくやっていきますから」
モオルダアはだんだん気分が悪くなってきた。男が男なら女も女だ!
「あの、そういうことは我々のすることじゃないんですよねえ。捜査しているのはあなたの顔の謎で、その謎が簡単に解けてしまった今ではこの捜査はもうおしまいなんです。後はあなた方がなんとかしてくださいよ」
そう言いながら、モオルダアは自分で体中の力が抜けていくのを感じていた。そして言い終わる頃にはすっかりうなだれていた。双江が何かモオルダアに向かって酷いことを言いながら出ていったような気がしたが、それすら気にならない感じでモオルダアは机に座ったまま床を見つめていた。