14. 東京都港区
ふと思ったが、この話(the Peke-Files全体)には実在する地名とそうでないものが出てくるが、そこを気にしても意味がないので適当に考えてくれたらいいのである。実在してもしなくても、話にかわりはないのだし、あるとすれば実在する場所の少しマニアックなことを書いたらそこの地元の人がちょっと喜ぶかも知れないぐらいだし。(しかも、あまりマニアックなことは書かれないが。)
余計なことを書いてしまったが、パイパイ丸が本来母港としている芝浦埠頭からほど近い場所にあるマンションにモオルダアが向かっていた。向かっていると言っても、先程横須賀を出発したばかりなのでモオルダアがここにやって来るのはまだ先のことであろう。モオルダアが来るまでどうすれば良いのか?恐らく一時間近くかかるのだがそれまでずっと沈黙しているわけにもいかないし、わざわざ書くのだからここで何かが起こるのである。
モオルダアがここへ向かってくるよりもずっと前に一人の男がこのマンションの部屋に帰ってきた。モオルダアの向かっている先なのだから、ここは先程書いたパイパイ丸の乗組員の中にいる唯一の元気な人の家に違いない。
男の名は吾流智慧(ゴルチエ)という。名前は漢字だがこれは日本に帰化する時につけた当て字で元々はフランス人である。それからここで驚くべき話をすると、パイパイ丸は実はフランスの船だったりする。たとえ正式名称が「杯牌丸」であっても。
なので、現在病院で瀕死の船員達はだいたいがフランス人である。ゴルチエは日本人と結婚する時に妻の父親から気に入られよとして日本に帰化したということだが、その辺はどうでもいい。
ゴルチエは自分の家に帰ってきたはずなのだが、扉を開けて中に入ると一度辺りを見回して中の様子を探るようにしていた。玄関には妻と一緒に写っている写真が小さな額に入れて飾ってあったが、ゴルチエはそれを一度手にとると何かを確認するようにその写真を見てから部屋の奥へと入っていった。
ここは都会によくある感じのマンションで部屋の数はそれほど多くはない。ゴルチエは各部屋のドアを開けて中を確認しながら、一番奥にある部屋に入っていった。そこは見た感じからするとゴルチエが書斎として使っている部屋のようだった。部屋に入ったゴルチエは机や棚の引き出しをあけてそこに入っている書類を方端から確認していた。そこに彼の必要としている何かがあるのだろう。
そうしているうちに、入り口のところでドアの鍵を開ける音が聞こえてきた。そして、ドアが開くと誰かが入ってきて、中の様子に気付いたのか、真っ直ぐにゴルチエのいる部屋までやって来た。入ってきたのはゴルチエの妻だった。彼女はゴルチエの姿を見付けると驚きと安堵が入り交じったような複雑な表情をしていたが、乗組員は全員危険な状況にあると思っていたのだから、彼女にとってこれ以上の喜びはないはずである。
「ダーリン!?帰ってたの?心配したのよ。港の人から連絡があって、酷い状況だって聞いたから…」
ゴルチエを抱きしめながら妻はそう言ったのだが、どこかに違和感を感じて思わずゴルチエの目を覗き込んだ。目の前にいるのは確かに自分の夫であったが、その表情は大変な事故にあったにもかかわらず無事に帰ってこられた人間のものではなかった。妻の目にはゴルチエの肩越しに彼の部屋の光景が見えてきたのだが、最後に見た時には綺麗に片付けられていた部屋は、何者かに荒らされて散らかっている。恐らく目の前にいる夫、と言うよりも夫の姿をした何者かがそうしたに違いない。
「ダーリン!?なんで黙ってるの…?」
今度は恐怖に満ちた声で妻が言うともう一度ゴルチエの目を覗き込んだ。目の前にいるのが自分の夫であると信じたかったが、そうではないことがハッキリ解った。冷たく虚ろな瞳を見つめながら恐怖に叫び声をあげようとした瞬間にゴルチエが両手で妻の方を掴んだ。叫びは音にならずにノドの手前で詰まっていたが、彼女の瞳は叫び続けているように大きく見開かれたままゴルチエのことを見続けていた。
ゴルチエは相変わらず無表情で目の前の妻のことを見ていた。それが妻であると解っているのかは解らないが、とにかく両手で妻を掴んだままだった。妻はこれからこのゴルチエの姿をした誰かが何をするのか解らないまま恐怖に震えていたのだが、ゴルチエがまばたきした時、その目の中に異様な影を見た。影というのは正しくないとも思えたが、それはまばたきに合わせて目玉の表面をスープに浮いた油分のように流れていった。ということはつまりそれは影ではなくて黒い油のようなものなのだ、と一瞬妻はどうでも良いことを考えたのだが、それを最後に妻の記憶は途切れることになった。
しばらくすると、ゴルチエの家の玄関から妻が出てきた。それは先程まで夫の豹変ぶりに脅えていた妻ではなかった。先程までのゴルチエと同じく、虚ろで冷たい目をして無表情のまま家から去っていった。
一方、モオルダアの乗っている電車はやっと東京都内に入ってきたところだった。横須賀に向かう時には車だったし、特に電車の中でヒマ潰しに使えるようなものは持っていなかったモオルダアは、事件のことを考えてみたり、眠ろうとしてみたり、目的地までの時間をなんとかしようと努力していた。そして今は近くに座っているアラサーっぽい女性同士の会話をなんとなく聞くでもなく聞いていたりしていた。
「…へえ、そうなんだ」
「そうなのよ。それでさ、うちのダーリンがね…」
そんな会話をこっそり聞きながら、モオルダアは「ダーリン」という言い方をするのは国際結婚に違いないな、と思っていた。それから、適当に受け答えしている相手の方はまだ結婚してないし、特にそんな予定もないし、楽しそうにダーリンの話をする相手にちょっと嫌気がさしているな、と思っていた。思っているだけでそれが正しいかどうかは解らないのだが、そんなことを考えていたら急に睡魔に襲われたモオルダアは、電車の席に座ったままカクッとなってそのまま寝てしまった。そして、目覚めたのは残念ながら電車が目的の駅をちょうど発車した時だった。
「どうせなら次の駅で目覚めたかったのに」
声に出して言ったわけではないが、モオルダアは次第に速度を上げて離れていく駅のホームを見ながら心の中でブツブツ言っていた。次の駅に着くまでと、そこから一駅引き返す時間がミョーに長く感じたが、モオルダアはなんとか目的の駅にたどり着いてゴルチエの住むマンションへと向かった。もしもモオルダアが寝過ごしたりしなければ、ちょうどゴルチエの妻がドアから出てきたぐらいにマンションに着いているはずだったのだが、残念ながらゴルチエの妻とモオルダアが鉢合わせるという展開は無いようだ。
モオルダアはゴルチエの住む部屋の前まで来て呼び鈴を押したが、もちろん中からの反応は無かった。留守なのだろうか?留守だとしたらどこに行くのだろうか?そんなことを考えながらモオルダアはなんとなくドアノブを回してみた。するとドアに鍵がかかっていなかったようで、ドアが開いた。
鍵のかかっていない玄関は今回何度出てくるんだ?そんなことを思ってしまったが、やはりこの都会のマンションで鍵もかけずに外出は無いだろう、ということでモオルダアはまたモデルガンを取りだして慎重に部屋の中へと入っていった。
中に入ると、まず目に付いたのが突き当たりにあるドアがあけっぱなしになっているゴルチエの書斎だった。ドアが開けっ放しで、しかも引き出しや棚が開いたままだったり、部屋中に書類などが散らばっていたり、解りやすく怪しい感じになっていた。
モオルダアはモデルガンを構えたまま部屋の中へと入っていった。すると散らかった机の上に一封の封筒を見付けた。他にも書類や封筒や色々と散らかっているのだが、一番上にあるこの中身のグチャグチャになった封筒が怪しいに決まっている。そう思ったモオルダアは一度封筒に書いてある住所を確認するとそれを自分のポケットの中にしまった。
するとその時、モオルダアの前の机の向こうから「ウゥゥ…」といううめき声が聞こえてきて、モオルダアは飛び上がって驚きそうになった。ただ、そのうめき声があまりにも弱々しかったので、飛び上がらずには済んだのだが、モオルダアは慌てて机の向こうに体を乗り出してそこを確認した。するとそこにはゴルチエが倒れていた。
「ちょっと、どうしたんですか?大丈夫ですか?」
モオルダアが声をかけたがゴルチエはまだ横になってうめいている状態だった。
「しっかりしてください」
そう言いながらモオルダアはゴルチエの横に行って抱き起こそうとしたのだが、ゴルチエの体や服にははヌメヌメした油のようなものが着いていて、モオルダアはその油に触ってしまった両手を見ながら「ウワッ…」っとなってしまった。うめき声をあげながら倒れている人に対して「ウワッ…」というのは失礼かも知れないが、ヌメヌメしていたら仕方がない。モオルダアはヌメヌメに触った両手を顔の前に持ってきて眺めていたが、そのヌメヌメはどこかで見たような感じもしていた。
あのパイパイ丸にあった潜水服のヌメヌメもこんな感じだったのだ。それにしても、このヌメヌメに触った手はどうすれば良いのかと思って、ちり紙とかそういうものがないか見渡してみたが、ちょうど良いものが無かったので、モオルダアは仕方なく両手をまたポケットの中に入れた。
「ウァァァ…」
またゴルチエのうめき声がした。今度はさっきよりもハッキリしている感じだった。
「しっかりしてください」
モオルダアはせっかくポケットの中で拭いた手でゴルチエの肩を掴むと軽くゆするようにして話しかけた。
「ココハ…。ココハ・ワタシノ・イエデスネ」
また外国人風だが、元外国人なので仕方がない。
「一体、何があったんですか?」
「ワタシハ…。ワタシハ・フネニ・ノッテイタ・ハズデス!フネカラ・センスイシテイタハズデス!」
「その船で大変な事が起きたんですけど。なにか覚えてないんですか?」
「ワッカリマセンネ」
「恐らくあなた方は何かを探していて、そしてそれを見付けたんじゃないですか?」
「フフーン…」
フフーンってなんだ?という感じだが、なにか都合の悪いことでもあるのだろうか。
「アナタ・イッタイ・ダレデスカ?」
「私はF.B.L.の優秀な捜査官のモオルダアです。あなたにこの封筒のことについて聞きたいのですが。ここに書いてある『カレンチャ君の沈没船情報社』っていうのはなんですか?」
「ワッカリマセンネ」
「そうですか。でもここにいた誰かはこの会社に興味があったみたいですよ」
自分の部屋にその会社の名前の書いてある封筒があったのは確かなことなので、ゴルチエはしらを切り続けることは無理だと思っていた。しかし、こういう時にはどう言えば良いのか、ちゃんと誰かから教えられているようだ。
「ナンダカ・シリマセンケド。ソウイウコトハ・リョウジカン・トオシテクダサイヨ」
領事館とか言っているが、ゴルチエは法律上は日本人なので領事館とか関係ないのだが。しかしパイパイ丸はフランス船籍だったりするし、ここは無理にゴルチエから話を聞くことは無理そうな気もした。
「ソレニ・アナタ!ドソクデ・ヒトノイエニハイルトハ・ナニゴトデスカ!」
そんなことを言われてモオルダアはなぜか凄く悪いことをしているような気分になってしまった。言われたとおりモオルダアは土足のままこの部屋に入ってきていた。前の時には上手くいったのだが今回は土足が裏目に出たようだ。
「マッタク・シツレイナヒトデスヨ!デテイケ!デテイケ!」
「ああ、…いや…あの…。スイマセン…」
モオルダアは情けない感じでゴルチエの家から追い出されてしまった。しかし、ポケットの中には怪しい封筒もあることだし、そこに書いてある住所などを調べたら何か解るに違いない、と思ってモオルダアは外に出ることにした。