15. 都心部のどこか(さっきの続き)
奇跡的とはこういう事を言うのだろうか。M刑事とミライガミは目の前で次々に停車する車を見ながらそう思っていた。モオルダアは赤信号を無視して行き交う自動車の中へ飛び出していったが、車にぶつかることなく通りの反対側まで辿り着いた。途中何度もモオルダアのスレスレのところを車が通りすぎて、それを見ていた歩行者から悲鳴が上がったのだが、モオルダアが無事に道路を渡りきった今、この交差点はいつもどおりの人混みでざわついた交差点に戻っていた。
M刑事とミライガミはしばらく放心状態でモオルダアの走っていった後を眺めていたが互いに目を合わせるとモオルダアの後を追った。もちろん、信号が青になってからだが。
「まさかと思うが、キミが見たのはアレだったのか?」
「はい」
二人ともモオルダアがなぜ突然走り出したのかはだいたい解っていたようだ。彼は道路の向こう側に誰かを見付けて追いかけて行ったに違いないのだ。そしてその人間はアイダとそっくりな顔をしていた。或いはアイダ本人かも知れないが、二人はあまりそう思いたくはなかっただろう。死んだ人間は交差点の反対側で信号を待っていたりはしないから。
モオルダアは自分が奇跡的に道路を渡りきったということには少しも気付いていない様子で、必死になってさっき見た人物を追いかけていた。アイダらしき人物はモオルダアに追われてしばらく走った後にとあるビルに入っていった。
アイダらしき人物に続いてモオルダアがビルに入ると、奥にある階段へ続く扉の中に入っていくアイダらしき人物の姿が見えた。ビルの中にいた数人の会社員達は、いきなり慌ただしい事になっていて驚いているようなので、モオルダアはエフ・ビー・エルの身分証を掲げながら入っていったが、そうしたところでそれは中にいた人達の不信感を煽るだけだった。
階段のところに来ると数階上から人が走って登っていく音が聞こえてきた。どこへ逃げようとしているのか知らないが、もう袋のネズミといった状態である。モオルダアは上から聞こえてくる足音を追いかけて階段を登っていった。
ビルは10階まであるかどうかという高さだった。ただし一階から最上階まで一気に階段で登るのは普通の人間にとってはしんどいことだ。モオルダアも五階辺りで息が上がってきたが、重要人物を目の前にして多少興奮状態のために止まらずに追いかけることが出来た。こういうビルの狭い階段は手摺りを上手く利用して両手の力も使えばけっこう楽に登れるのだ。モオルダアはF.B.L.ビルディングの階段でこの「楽に階段を昇る方法」をあみ出していた。(どうでも良いことだが、シーズン1の時にはF.B.L.ビルディングにエレベーターがなかったので職員は階段か屋外の窓ふき用のゴンドラを使って各階を移動していた。)
モオルダアはアイダらしき人物を追いかけて最上階を通り過ぎて屋上まで登ってきた。屋上に出るためのドアが勢いよく開けられて、一度開ききってから反動でゆっくり閉まろうとしているところだった。アイダのような人物はもうすぐ目の前にいるようだ。モオルダアは息をするのにかなり苦しそうにしていたが、今こそ優秀な捜査官として活躍する時でもあった。彼は胸のところのホルスターからいつものモデルガンを取りだして屋上に出た。
「動くな!」
モオルダアがモデルガンを向けた先にはアイダのような人物の背中が見えていた。その人物はモオルダアに言われたとおり逃げるのをやめてそこに立ち止まった。
「両手を挙げて、ゆっくりこちらに向くんだ」
息が上がって声が途切れそうなところもあったのだが、ここまでは完璧な「優秀な捜査官」になっている。アイダのような人物もモオルダアに言われたとおりに両手を挙げた。それから、体の向きは変えずに顔だけをモオルダアの方に向けた。
モオルダアはその顔を見ると、背筋に気味の悪いものを感じでゾクッとしてしまった。その人物はアイダに違いなかった。ほとんどネズミ色といっても良いほどに生気のない死人の顔に大きめの目をギラギラさせながら、モオルダアを見て幽かに微笑んだようだった。
モオルダアが一瞬ひるんだその時に、アイダはまた走り出した。この屋上からどこへ逃げるのか?とモオルダアは思ったのだが、アイダはさほど高くない柵を乗り越えるとそこからジャンプした。それを見たモオルダアは「ヘッ!?」という声をあげてしまい、せっかくこれまで「優秀な捜査官」っぽいことになっていたのが台無しだ、と思いながら慌ててアイダの乗り越えた柵の方へと走っていった。
そこから見えたのは、このビルよりも少し背の低い隣のビルだ。そこからアイダはまた不気味な瞳で微笑むようにモオルダアを見つめていた。ここでアイダを逃がすわけにはいかない。さっきまで走り回ってテンションが上がっていることも手伝って、モオルダアは思い切った行動に出た。
アイダがやったのと同じように、柵を乗り越えるとそこからジャンプしたのだ。この時にモオルダアが一度でもビルの遙か下に見える地面を見ていたら大変なことになっていたかも知れないのだが、幸いにも今のモオルダアにはアイダしか見えていなかった。
隣のビルに飛び移ったモオルダアだったが、さっきのビルから2メートル以上の高さを落ちてきたので、屋上に着地した時にはそうとうの衝撃があったようだ。普段はほとんど味わうことのない衝撃にモオルダアの頭はしばし混乱状態にあったのだが、すぐに我に返るとアイダの姿を探した。
このビルはさっきのビルと違って屋上に簡単に人が出られるような作りになっていないようだ。それで、物が置かれていることもなく、貯水タンクといくつかの換気用のパイプのようなものを除けば何もない。アイダは確かにここにいたのだが、一体どこに隠れたのだろう?もうこのビルからは飛び移れそうな場所は他にないし。
そんなことを考えてモオルダアは辺りを見回したのだが、その時になってようやく自分がどんなに危険な事をしていたのかに気がついた。そして、自分が柵のない屋上にいて、しかもちょっと覗き込めばビルの下の道路が見えるほど端に立っていることも解った。そして、そこから下を見てしまったらもうオシマイである。
モオルダアは体の中心から全ての力が抜けていくような、或いは全ての血液が氷水になってしまったような、というか、何と表現すれば良いのか解らない高い場所に独特の、あの恐怖感でいっぱいになっていた。
「ヤバい…ヤバい…」
自分を落ち着かせようと精一杯の努力をして何かを口にしたのだが「ヤバい…」じゃあまり効果はなかった。恐怖心は人に普段以上の能力を発揮させる時もあれば、全ての能力を奪ってしまうこともある。さっきビルの間を飛び越えたモオルダアの行動は前者で、今のモオルダアが後者ということになるのだろうか。
モオルダアはまったく身動きがとれなくなっていた。少し屋上の中心に向かって移動すれば今よりも安全になるのだが、足を動かそうとするとなぜか意志とは反対に動きそうな気がして動けないのである。それよりも、モオルダアの意志とは反対にモオルダアはどうしてもビルの下を覗き込みたくなっていた。どうしてそうなるのか知らないが、パニックに陥った人間の行動に理由はないのかも知れない。
10階ぐらいの高さだが、ここから落ちたら命がないことぐらい誰にでもわかる。だから高いところは誰でも少しは恐いと思うのだが、これがモオルダアほどの高所恐怖症となると、その恐怖は収集がつかないものになる。
モオルダアはそうするべきではないと思いながら、ビルの下を覗き込んでしまった。遥か下の方に道路のアスファルトが見える。そこを小さな人間達が行き来している。なぜか吸い込まれる気分。誰かが自分を引っぱっているような気もするし、自ら下の方に移動していくような気もする。モオルダアは汗で塗れた両手を握りしめながら、何か手摺りのような物があればどれだけ助けになるか、と思っていた。しかし、そこには掴まるものは何もない。「こんな危険な屋上はもう二度と作らせるべきではない」と、いつか訴えてやろうと思いながら、モオルダアの体は次第に遥かに下方の地面の方へと傾いていった。「もしかして、あそこの交差点で起きる事故ってボクが落ちるって事だったのか?」それが最後にモオルダアの思ったことだとしたら、あまりにも悲しかっただろう。
「ちょいと、モオルダア!」
屋上の端っこでバランスを崩して落ちそうになっているモルダアの上着の背中をスケアリーが掴んだ。
「ぁぁぁ…」
屋上から転落せずに済んだモオルダアは振り返ると悲鳴なのか何なのか良く解らない声を発した。そしてそのまま放っておいたら子供のように泣き出しそうな感じで目に涙をいっぱいに溜めていた。
「一体なんだって言うんですの?」
モオルダアの泣きそうな顔を見ていたらスケアリーも何とも言えない恐ろしさを感じて不安な表情をモオルダアに向けていた。見たことのないそのスケアリーの表情に、なぜかモオルダアはわずかながら自分を取り戻すことが出来た。
「なんでキミがここにいるんだ?」
まだスケアリーに背中を掴まれているままのヘンな態勢でモオルダアが言った。スケアリーはそのままモオルダアを引っぱって屋上の真ん中辺まで連れてきた。
「それはどうでも良いんですのよ!」
「そんなふうには思えないけどね」
簡単に落ちない場所に連れてこられたモオルダアはやっと冷静に話せるようになった。しかしスケアリーの表情はいつもと違うままだった。
「どうしてキミはボクがここにいると解ったんだ?」
「だから、さっき電話で言ったでございましょ?あたくしが到着するまで何もするなって」
「そうだけど、アイダがいたんだよ。それで何もしないわけにはいかないしね。でもボクはキミに助けられたのかな?」
「助けたのはあたくしじゃありませんわ。さっきも言ったようにカスカニという予言者が言ったからですのよ」
「ホントに?!」
モオルダアはそれを聞いて納得したようなしないようなおかしな感じだった。カスカニの予知能力を本当にスケアリーが信じたのだろうか?
「キミがカスカニさんの言うことを信じてここに来たというのは何というか…」
「とにかく、あたくしのおかげであなたはここから落ちないで済んだのですから、それで良いんですのよ!」
スケアリーがいつもの恐い顔に戻ったので、モオルダアはそれ以上聞けなくなってしまった。
二人が屋上のハッチからビルの中に入ろうとすると、隣のビルの屋上からM刑事に呼び止められた。
「あれ?いったいどういう事ですか?あの人はどうなりました?」
そういえばアイダはどこに行ったのだろうか?モオルダアは疑問に思ったのだが、ここから隣のビルに向かって説明するのは面倒なので一度体勢を立て直すことにした。