22. 例の出版社
出版社のあるビルへ向かう車の中でモオルダアは妙に落ち着きがなかった。これまで二度もあの出版社に捜査に行っているし、もしかすると今頃社長は危険が迫っていることに気付いてどこかに逃げてしまったという事もあるかも知れない。あれだけあくどいことの出来る社長なら、いざというときの逃げ場も考えてあるだろう。例えば偽造パスポートで海外に逃亡したり。そんなことになると面倒な事になる。モオルダアはなるべく早くビルに行きたかったのだが、車を運転しているのはモオルダアではなくスケアリーなので、モオルダアはソワソワするしかなかった。
モオルダアがソワソワしていることに気付いたスケアリーは、モオルダアが先程の話に登場したポルノビデオの事を考えているに違いないと思って気味が悪いと思っていた。
M刑事を始めとする警官達とともにビルに到着したモオルダアとスケアリーは急いで出版社のオフィスのある階まで向かった。彼らがオフィスに押し入ってくる様子を見て、以前にモオルダアの相手をしていた男が慌てて彼らの前に立ちふさがるようにして彼らに聞いた。
「どうしましたか?いきなりやって来られても困りますよ。我々は常に締め切りに追われている身で…」
「もう締め切りは心配しなくても良いと思うぞ」
M刑事がそう言いながら令状を見せると男は諦めて退いた。
「社長はどこだ?」
「社長ならいませんよ」
男はまだ社長をかばう気でいるようだ。
「ランナウェイならそれで良いよ。でも社長室の場所は教えられるだろ」
モオルダアが言うと男は気に入らない感じでモオルダアを見た。
「社長室はあそこですけど。鍵がかかってますよ」
「開かないと言うのなら蹴破るだけだがな。キミ、我々に協力しないと後々面倒な事になると思うぜ」
M刑事が言うと男は引き出しから鍵を取り出して、肩を落としながら社長室の方へと向かった。
スケアリーとM刑事は万が一のために銃を取り出していた。モオルダアもモデルガンを手に持っていたことは言うまでもない。社長室の扉の右側にM刑事。左側にスケアリーが壁際に銃を構えて立っていた。モオルダアはどこに立っていたら良いのか解らずに中途半端な感じで男が鍵を開けるのを後ろから見ていた。
男が鍵を開けると、M刑事は男に扉から離れるように合図した。そして一度辺りを見回して準備が整っているかを確認してから社長室に踏み込んだ。
「警察だ!…」
「…F.B.L.ですのよ!」
「…動くな!F.B.L.だ!…」
それぞれに好き勝手な事を言っているので何を言っているのか解らなかったが、それは聞き取れてもそうでなくても特に意味はないようだった。部屋にはセクシー下着姿の女性が一人、脅えた感じでソファの上で震えていた。モオルダアはこのセクシー下着に一瞬心を奪われてしまったが、しまった!と思って部屋の中を見渡した。
辺りを見回した瞬間に、この部屋が異常な感じであることはすぐに気付いた。部屋のあちこちにお札のようなものが貼られている。これで悪霊から身を守るという事なのだろうか?とモオルダアは思っていたが、それよりも社長を探さないといけない。モオルダアは部屋の窓が開いたままなのに気付いた。
「おい、お前。社長はどこだ?」
M刑事はセクシー下着の女性に聞いた。一つはモデルガンなのだが、いきなり何丁もの拳銃を向けられて女性はパニックだったようだが、なんとか震える手を持ち上げて空けっぱなしの窓の方を指さしていた。
その窓を見るとモオルダアがそこから外に出ようとしているところだった。
「ちょいと!モオルダア!」
スケアリーは慌ててモオルダアを止めようとしたのだが、夢中になると彼が止まらないということも知っていた。
モオルダアが窓から顔を出した時に、窓の下にあるちょっとした出っ張りをつたってどこかへ逃げようとする社長の姿が目に入ってきた。部屋の中にいたセクシー下着の女性とこれからお楽しみ会が始まるところだったようでランニングシャツにトランクスだが靴は履いたまま、というなんとも言えない情けない格好だった。
ここがビルの五階であることをモオルダアが覚えていたらそんなことはしなかったはずだが、ここまで来て社長を逃がすわけにはいかない、と盛り上がっているモオルダアはそんなことは忘れている。窓から外に出ると、その下のちょっとした出っ張りに降りて社長を追いかけた。
この窓の下の出っ張りというのは、どうにも厄介である。下の階の雨除けなのか、それとも映画などのこういう場面で見ている人間をドキドキさせるためだけに存在しているのか。とにかく、それは靴のサイズよりもちょっとだけ大きいぐらいの幅しかなくて、その上を歩くには壁に背を付けてちょっとずつ横向きに進んでいかなくてはいけないのだ。
モオルダアが窓の外に降りた時には、社長はすでにビルの端まで到達していて、そこから折れ曲がってビルの別の面へ消えていくところだった。
「チョットマッテ、シャチョーサン!」
妙な興奮状態のモオルダアはヘンなイントネーションで社長を呼び止めたが、それで止まるわけはない。モオルダアは急いで社長の後を追った。急いでも、急げない場所なのでもどかしかったのだが、年配の社長よりは早く進めたようで、モオルダアがビルの端から社長の曲がっていた方を覗き込むとすぐ近くに社長の姿があった。
「もういい加減に諦めたらどうなんですか?」
モオルダアが社長に向かって言うと、社長は一度モオルダアの方を見てからまた必死に逃げ始めた。このビルの外壁からどこへ逃げようと言うのか解らないが、往生際が悪いというのはこういうことを言うのだろう。
壁面に背を付けたままの横歩きで逃げる社長を、同じようにしてモオルダアが追いかけた。モオルダアが社長に気をとられて、まだ自分の足下を見ていないのが幸いである。自分がビルの五階の高さにいると気付いたら、目がくらんでモオルダアは勝手にその場所から落下していくに違いない。
「社長さん。もう諦めましょうよ。もう逃げる場所もないんですよ」
モオルダアが言うと、社長が一度動きを止めた。モオルダアの言うとおり、このビルの外側のちょっとした出っ張りを逃げても、ビルのまわりをグルグル回るだけでどこにも逃げられないのは確かだった。それでも社長はまだ諦めない感じでモオルダアに言った。
「キミ。キミはなかなか見どころのある人間だと思うのだがね。どうだね、私と手を組むというのは?」
この期におよんでそんなことを言うとは、さすがのモオルダアも呆れた感じで何も答えずに社長の方へ近づいていった。するとその時、信じがたいことが起きたのだった。
社長の背後にはビルの窓があるのだが、中は誰もいないらしく明かりも点いていないし、窓は閉められているようだった。その窓から何者かの手がのびてきて社長の背中を勢いよく突き飛ばしたのだ。社長とモオルダアが今立っている細い場所を考えると、勢い良くなくてもちょっと背中を押せば大変な事になるのだが、さらに勢いが良いとなるとひとたまりもない。
社長は驚愕と恐怖とその他もろもろの感情を込めた、情けない光を帯びた目をモオルダアに向けて何かを訴えるようにしながらビルから落ちていった。
「アッ!」
と、言ってビックリしながら社長が落ちていくのを目で追ってしまったモオルダアだったが、それと同時に恐ろしいことに気付いてしまったようだ。自分が今ビルの五階の高さにいて、少し間違えれば落っこちて命が無い。しかも、目の前で社長が落っこちて、ちょうど今、アスファルトに叩き付けられてグニャっとなったところだ。
ヤバい。ヤバいというよりも、もうダメな気がした。しかし、ほとんど気絶しそうなモオルダアは朦朧とした意識の中で何かと戦おうとしていた。この恐怖を克服しさえすれば大丈夫。そう、大丈夫。落ちるまでは落ちていないのだから。生きているうちは死んでいないのだから。大丈夫に決まっている。
そんなことを考えても、やっぱり高いところの恐怖には勝てない。意識すればするほど危険な方へと重心が傾いていく。モオルダアは両手を背後にある壁に当ててみた。当たり前だが、そこに手でつかめるものなど無かった。どうして人が横向きになって歩けるぐらいの出っ張りはあるのに、こういう時に掴むものは用意されていないのか?そんなことを考えながらも、まだ何かを掴もうと両手で背後を探りながら、モオルダアの体は次第に地面の方へと引き寄せられていくようだった。もうモオルダアにはそれがどういう事を意味しているのか解っていなかった。ただ、もうダメだ!と思うしかなかった。
するとその時、モオルダアの背後の窓が開くとそこから手がのびてきて、モオルダアの上着の背中を掴んだ。
前に見たような光景だったが、モオルダアはまた前に見たような感じで泣きそうになりながら振り返った。するとそこにはスケアリーの姿があった。
「なんなんですの?まったく」
スケアリーの安心したようなあきれたような表情を見てモオルダアは本当に泣きそうになったのだが、なんとかこらえていた。とにかく、この恐ろしい場所から早く移動したいので、スケアリーの腕にしがみついて窓からビルの中へと入った。
ビルの中に入って窓の外を見ると、さっきまであんなに恐ろしかった眼下の光景がなんでもないように見える。とは言っても、そこに見えているのは落下してグニャっとなっている社長の姿だったのだが。
「おとなしく捕まっていれば良かったのに…」
そう言いながら、モオルダアはどうして社長がビルから落下したのかをスケアリーに話すべきかどうか迷っていた。
「でもこれでアイダの無念が晴れたということでございましょ?」
このスケアリーの発言に驚いてモオルダアはスケアリーを見つめてしまったのだが、彼女は黙ってビルの下の方を眺めているだけだった。
ビルから落下した社長のまわりには早くも人だかりが出来ていた。そこに集まった野次馬達は携帯電話のカメラで下着姿で落下してきた社長の死体を撮影していた。その写真をインターネットで公開するのか、それとも一人で見たり身内に見せたりして楽しむのか解らないが、少なくとも、そこに倒れているのがついさっきまで生きていた人間であるというところは特に意識していないようだった。
モオルダアはそんな感じで五階の窓から下の様子を眺めていたのだが、それと同時に「どうして携帯電話のカメラで写真を撮影する事を『写メ』というのだろう?」とヘンな事も考えていた。携帯電話に付いていても、アレはカメラであることに変わりは無いのだし、写真を撮るのは「撮影」とか、そのまま「写真を撮る」で良いのだが。まあ、どうでもいいか。