15. 事件現場
梅木の家は一通りの検分が終わって、立ち入り禁止のテープが家の周りに張り巡らされてはいるが警官の姿もなく、前日の騒然とした様子はなくなって静まりかえっていた。モオルダアがやって来た時にここにいたのは昨日彼と一緒に増築部分の捜索をしたあの若い刑事だった。
「やあ、どうも。そういえば、まだ自己紹介してませんでしたね。私は刑事の板尾田羽多(イタオタバタ)といいます。あなたはモオルダア捜査官ですね」
「ああ、そうだが」
昨日から思っていたが、この刑事はかなり好印象である。しかし、一つの疑問がモオルダアの頭に湧き起こっていたのは無理もない。「イタオタバタ」ってフルネームだよな?とモオルダアは頭の中で自分に聞いていた。でも、ありふれた感じでない名字の場合は名字だけで自己紹介することもあるのだが。イタオさんと呼んでそれが名字の半分だけだったら失礼だし、かといってイタオタバタがフルネームだとするとイタオタバタさんと呼んだら不自然でもある…。
「それで、なにから始めましょうか?」
モオルダアが変なことに悩んでいるとイタオタバタが聞いてきた。このままでは先に進めない気もするのだが、モオルダアとしてもこの事件の真相はなんとしても明らかにしたいと思っているので、変なところに気を取られている訳にはいかない。しかし気になるものは気になるのだ。
「ああ、その前に。これボクの名刺ね。一緒に捜査するってなると緊急の連絡とかあるから、この番号とかメールアドレスとか、そういう感じで」
慌てて自分の名刺を取り出してモオルダアがイタオタバタに渡した。
「あ、しまった。名刺とか持ち歩いてないんですよ、私。これ、いつも先輩に怒られるんですよね。あの、携帯番号とかは後で教えますから」
携帯番号なんてどうでも良い、とモオルダアは思っていたが、名刺作戦は失敗したようだ。彼の名前の秘密は解らないまま捜査は進むことになりそうだ。
その前にどうしてこの若い刑事がモオルダアと協力して捜査をするのか?ということから説明するべきなのだが。警察で今回の事件の捜査を指揮しているのはスケアリーを梅木殺害の容疑者の一人にしたあの刑事なのだ。彼の名前は矢田那(ヤダナ)という。しかしこの若い刑事は、そのヤダナ刑事の直感に基づく捜査のやり方には常に疑問を抱いている。そして時には自分の意見を言って衝突することもあるのだが、しかしまだ若い刑事としては反抗し続けるワケにもいかず、中途半端なところで折れる事になる。
自分の意見を貫くのか、あるいは媚びへつらうのか、若い人はどちらかじゃないと上手く世渡りできないのだが。この若い刑事の場合はどちらでもない。つまりベテランのヤダナ刑事からは嫌われているということだ。
それで警察のメインの捜査からは外されて、FBLに協力するという表向きの任務を任されているのである。その裏にはFBLの変な捜査官がやっかいな問題を起こさないように監視して欲しいということもあるのだが。ただ、今のところこの若い刑事はモオルダアのことを信用しているようだ。お互い中途半端同士でなにか通じ合うところがあるのかも知れない。
「梅木を殺した犯人ですけど、もしかするとあなたの言うとおり、ここにはもう一人いたかも知れませんね」
変なやりとりのあと、やっと事件の話が始まった。
「というと?」
「梅木の殺害に使われたと思われるロープに人間の皮膚がついてたんです。それを調べたら梅木のでもスケアリー捜査官のものでもなかったそうですから」
「つまりDNAを調べたってこと」
「そうですね」
それならば意外とスケアリーの容疑を晴らすのは簡単かも知れないとモオルダアは思った。
「それからですね。梅木の死因は絞殺ではなくて、もしかすると首を絞められる前に死んでいたいたかも知れないってことなんです」
「というと?」
モオルダアはさっきもこう言ったな、と思ったのだが、この若い刑事はそういう返し方をしたくなる話し方でもある。どうでも良いが。
「心筋梗塞じゃないか?って。検死官によると、そういうことだったみたいですよ」
そう聞いてモオルダアはここで死んでいた梅木のあの顔を思い出してゾゾッとしてしまった。恐怖に歪む表情というのはああいうものに違いないと思えるほど、最初に会った時の梅木の紳士的な素敵な笑顔の面影は全くなかった。それは心臓の発作に苦しんでいたためなのか、それともそうなる前に彼が文字どおりに「心臓が止まるほど恐ろしいもの」を見たためなのか。モオルダアの考えの奥底では少女的第六感が何か嫌なものの存在を彼に告げようとしているようだった。
「ところでモオルダアさんはどうしてまたここへ来ようと思ったんですか?」
モオルダアが考え込んでしまったようなので刑事が聞いた。モオルダアは少し不意を突かれた感じで刑事の方を見た。
「なんていうか、ボクなりのやり方があるからね」
モオルダアは適当に答えたのだが、特にここに何があるのか見当がついているワケではなかった。
今頃、警察は梅木が仕事場として使っていた建物を調べているのだ。梅木が犬のブリーダーだというのは彼が言ったとおりだったのだが、仕事仲間などはなく普段は主に一人で仕事をしていたようだ。それだから彼の裏の一面である悪魔の本性に気づく人はいなかったのだろう。
警察は彼の仕事場を調べているうちに、そこにも怪しい部屋があることに気づいたのだ。この家の増築部分とは違う、本格的な隠し部屋のようなものだったらしく、簡単に開けることはできない。何しろ本来部屋の入り口があるべき場所が壁で覆われてそこには何も無いかのように見せかけてあったのだ。
そこを調べるためにはその壁を取り壊す必要があって、そのための許可を得るためにビルの持ち主との間で色々と手続きの最中ということらしい。
「ボクはあの隠し部屋を調べたら、被害者の女性とか見つかると思うんですけどね」
「まあ、そうだろうね。その点ではあの刑事は正しいんだと思うよ。この家には何人もの女性を監禁するようなスペースは無いしね。生きていても、いなくても…」
モオルダアがそう言ったところで、また彼はスケアリーのことを思い出して少し胸が締め付けられた。こうなった責任の半分は自分にあるのだし、これ以上スケアリーを苦しませるワケにはいかない。せめて梅木を殺した犯人だけは見つけないといけないのだ。
「梅木はここで死んでいたんだよね」
モオルダアはそう言いながら梅木が壁に背を付けた状態で死んでいた場所の手前まできた。
「そして、スケアリーはそこの机の向こう側に倒れていた」
モオルダアがそう言ってスケアリーの倒れていた方を見る。スケアリーの姿は梅木のいた場所からだと部屋の中央にある机が邪魔になって見えなかったはずである。梅木が死ぬ直前に何かを見てあの表情で死んだとしたら、それはスケアリーではなかったに違いない。しかし、こんな理屈は証拠にはならない。モオルダアはもう一度壁の方を見てから振り返った。
「この壁にもたれた状態でまっすぐに前を見るとすると、あの扉の方だね」
「まあ、そうですね」
若い刑事はさっきからモオルダアの言うことを聞いていたが、何が言いたいのか良く解っていないようだった。
「もしも梅木が最後に犯人を見ながら死んだのだとしたら、その犯人はこの扉から入ってきたのかな、と思ってね」
モオルダアは説明しながらその扉を開けてみた。
「でも、その部屋は昨日も調べましたけど」
それはモオルダアも知っている。しかし、他にも何かがあると思ってもう一度見てみると、前には気付かなかった何かに気付くこともある。そこに期待してモオルダアは隣の部屋を確認したのだが、その部屋に犯人が潜んでいたとか、そこを通ってやって来たとか、そんな形跡は見当たらない気がした。そこに犯人がいたと考えるには、その部屋はあまりにも整然としていたのである。
「今のところ、証拠はロープについていた皮膚だけって感じですかね」
モオルダアの後ろから刑事が部屋を覗きながら言った。モオルダアも同じような考えだったのだが、部屋を眺めているうちにどこか違和感があるのに気がついた。そして、それが何かに気づくのに時間はかからなかった。
「ねえ、キミ。この人形だけど、昨日はここにあったっけ?」
モオルダアがそう言いながら指さしたのは、彼らがここへやって来ることの最初の理由となったあの日本人形だった。誰かが持ち帰っても必ずこの家に帰ってきてしまうという怪談話のネタになった人形である。
「人形ですか?…どうだったかなあ」
刑事としては事件と人形の関連などどうでも良いことだったので、昨日ここに人形があったかどうかなど覚えているワケはない。
「昨日撮った写真を調べたら解ると思うんですが。でも、この人形に何かあるんですか?」
「あるか無いかはこれから解るかも知れないけどね。この人形、ちょっと調べてみたいからここから持ち出すけど、キミの上司的には問題ないよね」
「何するんですか?…まあ、人形だったら特に問題ないと思いますし。良いですよ」
モオルダアが何を思ったのか解らないが、例の人形を持ち帰ることにしたようだ。