09. FBLビルディング
技術者のいる部屋ではモオルダアと技術者がダラダラしていた。さっきの話からの流れで雑種とちゃんとした名前のついた犬種との違いはあるのか?という、どうでも良い事が議論されていたようだ。ちゃんとした犬種の犬も、元はいくつかの種類の犬を掛け合わせて生まれたものだったりもするので、そういう意味では雑種なんじゃないか?とか。はたまた雑種は丈夫だから飼うのには丁度良いとか。それが何なのか?というと、この二人は仕事をする気がないということでもあるのだが。
するとその時、モオルダアの携帯電話が鳴り出した。モオルダアが電話に出たのだが、相手は何を言っているのか良く聞こえない。彼は電波の状態が悪いのかと思って立ち上がると部屋の中をうろついてみたりした。
「もしもし?…もしもし?」
モオルダアが聞いても何の反応も無いので、彼は技術者の方に向かって「なんだろう?」という表情をしていたのだが、技術者の方もそんな表情をされても何のことだか解らないので「なんだろう?」と思っていた。
あまりにも緊張感のない部屋だったが、その時電話の向こうから悲痛な叫びが聞こえて来た。
「助けて!モオルダア!助けて!」
電話の向こうから声が聞こえて、さらにその後にガタガタと物がぶつかるような音が続いた。それを聞いてモオルダアは全身の血が抜けていくような言いしれぬ不安と恐怖と、そしてある種の後悔のような物を感じて背筋がゾワゾワとしてきた。
あの声は間違いなくスケアリーの声である。「しまった…!」とモオルダアは心の中で叫んでいた。スケアリーは今生命の危険にさらされているのである。それは本来一緒に行動しているはずの自分がこんなところで遊んでいるから、というのが一番の理由としか思えない。
それに、考えてみれば怪しいところは沢山あったのだ。あの家にしろ、梅木にしろ。それに気づくのが自分の役目だったんじゃないか?とモオルダアは思うと先ほど抜けていったように感じた全身の血が今度は逆流してくるように思えた。彼の首筋や額から気持ち悪いアブラ汗がにじみ出してくる。
「ねえ今の電話、スケアリーからなんだけど、どこからかけたか調べられるよね?」
モオルダアが技術者に聞いた。FBLは色んな事件の捜査をする機関なので携帯電話の番号からどこから電話をかけたのか、とか調べる事もできるのだ。技術者が「ええ」と答えた時にはモオルダアはドアのところから外に出ようとしていた。調べなくてもスケアリーがどこにいるのかはだいたい解っていたのだ。
「それから、どこからかけたか解ったら、そこに応援も要請しておいて」
技術者は何が起きたのか解らなかったが、モオルダアがあれだけ慌てているということは大変な事になっているのだ、と思いすぐに行動した。それにスケアリーが関わっているとなればなおさらである。
10.
モオルダアは一番速い移動手段は何か?と考えて、やっぱりこれしかないと思いタクシーを止めてあの街へ向かった。運が良かったかどうか解らないが、モオルダアがFBLの身分証を見せて「大急ぎで頼む」と言うと、そういう事に盛り上がるタイプの運転手だったようでモオルダアの思っていた以上に急いで運転してくれた。その運転手にもFBLがどんな機関なのかは解らなかったのだが「多分警察のようなものだろう」と思ったに違いない。
途中で技術者から連絡があり、やはりスケアリーは梅木の家か、その近くから電話をかけたことが解った。あの家でスケアリーに何が起きたのか。考えれば考えるほどモオルダアの頭の中には恐ろしい光景が浮かんでくる。電話で助けを求めていた、これまで聞いた事もないようなスケアリーの怯えた声が頭から離れないのである。「スケアリーは生きている」と、そう考える事しかこの車の中では出来ない。あるいはそう願っているだけかも知れないが。
梅木の家の近くに来るとそれまで快調に飛ばしていたタクシーもなかなか進めなくなった。道が混んでいるとか、そういうことではなくて、道が細かく枝分かれして、さらに一方通行などが多いのが原因のようだった。モオルダアはスマホで地図を見ながら梅木の家がすぐ近くにあるのは解っていたので、その場でタクシーを降りるとそのまま走って梅木の家に向かった。
スマホも役だってモオルダアは迷うことなく梅木の家に辿り着いた。家の中からは何の物音も聞こえてこない。普通の状態なら物音が聞こえる方が変なのかも知れないが、この静けさはモオルダアを不安にさせた。
モオルダアは門を入って例の増築部分の下を通って玄関まで行くとドアノブを回してみた。あまり期待はしていなかったが、やはり鍵がかかっている。そして、このドアは蹴破ったり、体当たりして破れるようなドアではない。モオルダアは振り返ると玄関から門までの間にある増築されたベニヤ板の壁が扉になっているのに気づいた。片方はスケアリーが前に入っていった扉で、その反対側も同じように扉になっているようだ。モオルダアはまず右側の扉を開けて中に侵入できる箇所がないかを調べてみた。
その増築された廊下のような部屋の家側の壁は家の外壁がそのまま利用されているので、家の窓もそこにあるのだが、一階部分の窓は全て鉄格子に守られていてそこからは家に侵入することは無理なようだ。
モオルダアはさらに反対側の扉の中も調べたが、そこも同じような作りで侵入は無理そうだった。そこで彼は一度門を出て外の路地から家を確認してみた。すると二階の窓は鉄格子も無くて、鍵がかかっていなければ中に入れそうだった。
怪しい増築のせいで二階の窓へは容易に近づけることが解った。まず家の塀に登るとそのすぐのところに怪しく増築された廊下のような部屋の屋根がある。その屋根に登ると二階の窓はすぐ近くにあるのだ。この増築された怪しい部屋はこの家に関する何かを隠すための物になるのかも知れないが、二階の窓から侵入するためには大いに役に立っている。
前に話を聞いた時に梅木は家中の戸締まりは完璧にしてあったと言っていたが、モオルダアが手を伸ばした所の窓は難なく開いた。あの時梅木は嘘を言っていたのか、あるいはあの後に鍵が開けられたのかは解らないが、もっとモオルダアがよく調べていれば梅木が適当に嘘を言っていたかも知れないのに気づけただろう。
モオルダアは増築部分の屋根から窓によじ登って、シャツの前を真っ黒に汚しながら中に入った。だが侵入できて喜んでいる場合ではない。家の中はシーンと静まりかえっている。これが何を意味するのか、モオルダアはあまり考えたくなかったが、彼も物音を立てないように静かに部屋を出た。
あまり広くない家なので、二階には部屋も少ない。モオルダアは二階に誰もいない事を確認するとゆっくりと階段を下りて行った。緊張しているためか、いつものようにモデルガンを取りだして構えたりするのも忘れている。
階段の手すりに乗せた手を滑らせるようにしながら、静かに一階まで降りてくると、モオルダアはそこから辺りの様子を探ってみた。やはり物音一つしない不気味な空間である。そして、前にモオルダア達が通された部屋と別の部屋の扉が開いているのに気がついた。モオルダアはそこへ向かう前に何か武器のような物が必要なんじゃないか、と思ったのだが、彼の周りには武器になるような物はない。そこでようやくスーツの下に装着しているホルスターのモデルガンを思い出した。ただ今回はそんなものを使う気になれず、仕方なくそのまま開いた扉の方へ向かう事にした。
開いた扉から中を覗いたモオルダアは、その光景を目にして恐怖のあまり飛び上がりそうになった。だが部屋の奥に倒れているスケアリーの姿を見つけてなんとか冷静さを取り戻した。
モオルダアが部屋をのぞき込んだ時に彼をギョッとさせたのは梅木だった。彼はその横を通り過ぎて部屋の奥のスケアリーの所へ向かった。なぜそんなことが出来るのかというと、確認するまでもなく梅木は死んでいるのだ。部屋の壁に背をもたせかけて尻餅をついたような体勢で、両足は何かから逃げようともがいたように床を蹴るような向きに曲がっている。そして、死の直前の恐怖の叫びがそのまま凍り付いているような表情が何よりもモオルダアを驚かせた。
しかし、今はスケアリーが心配である。梅木は死んでいて、その向こうで倒れているスケアリー。モオルダアはまたイヤな汗が全身から噴き出してくるのを感じながらスケアリーに駆け寄った。うつぶせに倒れていて、両手は後ろ手に縛られている。そして、足にもロープが巻き付けられているが、それは何故か中途半端に巻き付けただけの状態だった。
スケアリーの横に跪いたモオルダアは一瞬彼女の体に触れるのを躊躇した。もしも彼女が冷たくなっていたら、と思ったのだ。だが戸惑っている場合ではない。生きているのならすぐに手当が必要になるかも知れないのだ。
モオルダアは彼女の右顎の下の首に手を当てて脈を確認してみた。彼はその手にしっかりとした脈を感じる事が出来た。息もちゃんとしているようだ。ホッとすると自分が額に汗をぐっしょりかいている事に気づいて、彼は一度袖で汗を拭いてからスケアリーの名を呼んだ。
一度呼んだだけでは意識は戻らなかった。モオルダアはポケットから十徳ナイフを取り出して、彼女を縛っているロープを解いていった。こういう物は持ち歩いても使う機会が滅多にないのだが、それでも持ち歩いていて損はしない。
一センチ幅ぐらいのロープだったが、丈夫に出来ているので切るのには手こずった。ロープを切りながらモオルダアは何度かスケアリーの名を呼んでみた。ロープを切る時に彼女の体が揺さぶられたのもあって、彼女の意識が次第に戻ってきているようだった。そして、ロープが切れる頃には「うーん」と小さく唸ったスケアリーがうっすらと目を開けた。
「スケアリー。大丈夫だよ」
モオルダアがスケアリーに声をかけたが、何が大丈夫なのか?とか、本当に大丈夫なのか?という事は良く解っていない。同じ部屋には梅木が死んでいるし、それは誰かに殺されたような格好である。そして、状況からして殺したのはスケアリーではない。とすると、どこかに殺した犯人がいる可能性もあるのだ。
モオルダアがスケアリーの足に巻き付けられたロープも外した頃にはスケアリーの意識もハッキリしてきて、自分で床に手をついてゆっくり体を起こした。
「モオルダア…」
何かを言おうとしたようだが、まだ彼女の頭の中は混乱している。
「スケアリー。一体何があったんだ?」
スケアリーの前に片膝をついてその顔をのぞき込むようにしながらモオルダアが聞いた。彼女の頬には青アザが出来て、唇が切れて今にも血が流れ出しそうだ。そして、その周りがさらにドス黒く汚れているのは梅木の腕から流れた血の汚れに違いない。
「梅木は…。悪魔ですのよ。モオルダア。あの男を捕まえないと…!」
モオルダアは彼女の肩に手を添えていたが、スケアリーはその腕を無意識のうちにぎゅっと掴んでいた。スーツの肩が破れているのが痛々しい。モオルダアはこういう時、優秀な捜査官としてスケアリーを抱きしめてあげたりした方が良いのか?とか思ったのだが、そうするにはなんだか体勢が変だし、余計な事はしない方が良さそうなので、ただ「もう大丈夫だよ」と声をかけた。
確かに梅木に関しては大丈夫に違いない。梅木は彼の後ろで死んでいるのだから。
「梅木は…死んだんですの?」
スケアリーが梅木の姿に気づいた。
「そうみたいだ。キミは何も覚えてないの?」
「ええ。いきなり梅木に襲われて…」
そこから後は記憶が混乱して何が起きていたのか思い出せない。あまりにもヒドい恐怖体験というのは一時的に記憶から消される事によって、パニック状態になる事から本人を守る効果があるのかも知れない。いずれにしても、彼女は数分、あるいは数十秒の格闘の末に意識を失ったのだから、その後で梅木に何が起きたのかは解らないだろう。
スケアリーが口を閉じてしまうと、ちょうどその時玄関の扉を叩く音が聞こえてきた。
「警察です。開けてください!」
そう玄関の外から聞こえて来た。