「回人」

01. 関東北部、山あいにある小さな街

 守山透(もりやまとおる)という男が夜の森を歩いている。スーツを着た役所職員の彼には似合わない場所なのだが、この森は森といってもそれなりに整備された公園なので、彼がここにいること自体は異様という程ではない。

 国道や県道といった普通の道に比べたら暗いが、街灯もあって夜でも歩くことは出来る。仕事が遅くなった時には、この森の中を通って家に向かえば少しだけ早く帰ることが出来るので、守山は時々この森の中の道を通るのだった。

 県道沿いの入り口からこの公園に入って、森を通り抜けるとまた別の県道に出ることが出来る。それ以外にも森の中のあらゆる場所を散策できるように道が作られているが、今の守山にはそれらの道はあまり意味がない。それに夜の森を歩いたところで、見るべきものも特にないし、昼間だってこの辺りに住んでいる人間にとっては珍しいものもない。ただこの森を抜けて早く家に帰りたいとだけ思って守山は歩いていた。

 守山が歩いているのはまだ公園の入り口からさほど進んでいない場所だったが、そこで守山は向こうから近づいてくる人影に気付いた。この時間にここで人に出会うのは初めてだったが、彼と同じような理由でここを通る人もいるかも知れないし、驚くほどのことでもないと思っていた。

 しかし、その人影は思ったよりも早く守山に近づいて来た。よく見るとその人はこの森の中を走っていたのだった。「おや?」と守山が思った時にはその人は彼の目の前にいて、次の瞬間には通り過ぎていった。

 ここに人がいることは意外ではなかったが、その人がいかにもジョガーらしいランニングウェアを着てジョギングをしているというのは意外だった。守山は一度振り返ってすれ違った人物の後ろ姿を確認したが、快調なペースで走って行くその人物の影はすぐに森の中に消えていってしまった。

 守山はどんな人がここを走っているのだろう?と思った。彼にとってはわざわざ公園を走るというのは都会の人というイメージである。都会は人や車も多くて危険だから、ジョガーは大きな公園を走るのだと彼は思っていた。きっと今見たジョガーは都会から何かの都合でこの辺りに来ているとか、そんな感じだろうと考えた。

 そこまで考えたが、それはどうでも良い事だと気付いた守山はまた早足で歩き出した。自分の足音しか聞こえない静かな森の中をしばらく歩いているうちに守山はまた「おや?」と思った。またジョガーが前方から近づいて来るのである。

 この公園の中には何本も道があるが、さっきと同じ人が前から走ってくるには間隔が短すぎると思えた。だが見た目はさっきのジョガーとよく似ている。守山は少し歩く速度を緩めて通り過ぎていくジョガーの顔をチラッと確認してみたが、さっきのジョガーの顔はほとんど見ていなかったので、それが同じ人間なのかは解らなかった。

 ただ、その顔を見た時に少し不思議に思ったことがあった。どこかで見たような顔だったが、それが誰だったのか解らない。そして、思い出そうとすればするほどさっき見た顔の印象がぼやけていってしまうようだった。

 守山はそれ以上考えるのはやめようと思った。この森の中で人に会うのも珍しいのだが、それがジョガーで、さらに二人もいたということからして滅多にないことなのだから、変な感覚になるのも無理はない。

 しかし、またすぐに守山は「おや?」と思わなければいけなくなった。

 三人目がいたのである。これまでの二人と同じように前から守山の方へ走ってくる。着ている服も前の二人と同じように見えたし、走る姿もそっくりだとも思った。

 守山は思わず立ち止まって彼の前を通り過ぎるジョガーを目で追った。そして、ジョガーが通りすぎて守山の視線がこれまで歩いて来た道の方へ向いた時に、彼の視界からジョガーの姿が消えた。

 消えたのはジョガーだけではなかった。彼の背後にあるはずの森が消えている。

 守山はワケが解らないまま、また視線を前の方へ戻したが、これまで歩いていた道はそこにはなかった。霧に包まれて何も見えないが、霧が晴れたとしても、そこには見える物がないような気がした。だいたい今日は霧などが出るような天候ではなかったのだし。ということは、どういうことか?と考えてみたが、すぐに考えるのをやめたくなった。永遠に続く無の中に迷い込んでしまったような気がして、言い知れぬ恐怖がわき上がってきた。

 逃げだそうとしても、何もない空間の中でどこへ逃げれば良いのか。走ってみても何もない空間では自分が動いているのかすら解らない。もしかして、さっきすれ違ったジョガー達もこの場所にいるのではないかと思って、守山は「誰かいますか?」と大きな声で聞いてみた。しかし、そうしたことによって守山はもっと恐ろしい事に気づいてしまった。自分の声が聞こえなかったのだ。

 ここには何もない。音すらも存在しない中に、ただ自分だけがいる。それに気付いて守山は音のしない悲鳴を上げた。