08. 早良邸
スケアリーの車は一連の失踪事件の最初の被害者である早良千寛(さらちひろ)という50代の女性の家についた。この女性も守山のように発見された時には記憶がほとんどなかったということだ。そして、記憶が少しずつ蘇ってくると、恐怖のために取り乱したりしたというのも守山と似ている。
早良の家の呼び鈴を押すと、中から早良千寛の息子という男性が出てきた。スケアリーが事情を話すと男性は二人を玄関の中に招き入れた。
しばらく待っていると奥から顔色の悪い女性がやってきた。彼女が早良千寛に違いない。事件から三ヶ月経っているのだが、まだ恐怖の記憶が消えずに何かに怯えているような表情にも見える。
「あたくしエフ・ビー・エルのスケアリーですけれど。あなたが行方不明になっていた件について少し話を聞かせてもらってよろしいかしら?」
千寛はゆっくりとスケアリーとモオルダアの顔を順に見つめてから一度うつむいた。
「あの…、出来る範囲で良いんですのよ。少しでも協力して頂けたら、これ以上被害者を出さなくて済むことになりますし…」
「やはり来た」
千寛は顔をあげると同時に口を開いた。スケアリーの言ったことは聞いていたのかどうか解らないようなタイミングだった。そして、その表情は硬直して先程までとはどこか違っているようにも見えた。
「私がカイジンにならなかったから、オマエたちが来たのか?私をカイジンにするために」
喉の奥から絞り出すように低い声で千寛は言った。
「カイジン、ってなんですの?」
「あの森は呪われているのだ。それを知らずに私はうかつにもあの森へ入っていった。あの森は優しい顔で人を出迎える。だが、入った途端に恐ろしい場所に変わるのだ。あの整備された道も、街灯も。人をおびき寄せるためのものだ。そして、カイジンも。カイジンは普通の人間のように見えるが、中身は別なのだ。私の時にはビジネスマンのような姿をしていた。それはそのカイジンの以前の姿だったに違いない。そして、カイジンは森に迷い込んだ人間を新たなカイジンにする」
「しかし、あなたは逃げることが出来たようですね」
スケアリーは呆気にとられていたので、こういう話の時には冷静な対応ができるモオルダアが聞いた。
「そう。私は見えない力に助けられたのかも知れない。どうやったのか自分でも覚えていないのだが、私は森から逃げ出すことが出来た。しかし、オマエたちが連れ戻しに来た」
「あたくし達はなにも…」
「嘘を言うな!…オマエ!オマエはあの時のカイジンとそっくりではないか!」
突然声を大きくして千寛がモオルダアを指差して言った。モオルダアは例によってギョッとする。怪談話をしている時に、急に大きな声を出してビックリさせるあの話し方みたいな感じだった。
「私を連れていきたいのならそうするが良い。だが私はオマエ達の思うようにはならない」
なんだかマズいことになってきたようだ。
モオルダアとスケアリーは千寛を落ち着かせるためにはどうすれば良いのか?と考え始めていたが、その時さっきの息子が奥からやって来た。
「母さん、この人達は何もしないよ」
息子はそう言いながら千寛の両肩に手をかけると、そのまま抱きかかえるようにして千寛を部屋の奥へと連れて行った。そして、しばらくすると一人で玄関のところへ戻ってきた。
「どうもすいません」
息子が靴を履いてドアの外へ出ようとするので、エフ・ビー・エルの二人もなんとなく一緒に外へ出た。
「昔はもっとまともだったんですけど。母はもともと妄想症のようなところがあって。とはいっても、医者にかかるようなものでもなかったのですが。それがあの件があって以来酷くなったようなんです」
スケアリーは、それが本当ならここへ来ても何も収穫がなかったことになると思っていた。それと同時にあそこまで酷い状態だと、医師の診断が必要になるのでは、とも思っていた。そのことを千寛の息子に言うべきか迷っていると、モオルダアが先に口を開いた。
「さっき千寛さんがカイジンと言っていましたが。あれが何のことだか解りますか?」
「これは、本当のことだか解らないのでなんとも言えませんが。母があの森ですれ違ったというスーツの男のことです。自分は同じ方向に向かって歩いているのに、何度も同じ人間とすれ違う。まるでその人が公園の中を猛スピードで一周してきて、それで何度もすれ違っているように思えるってことで。それで回るという意味の『カイ』と人という字を合わせて『カイジン』なんだそうです」
「それはもしかすると、なにか別の現象に自分なりの解釈で名前をつけて、それによって現実とは違うことが記憶として蘇った、というじゃないかしら?」
怪しい話が出てきたのでスケアリーが牽制をするように話に入ってきた。
「あの公園って、どこを歩いても似たような風景でございましょ。生えている木の種類もだいたい同じでしたし。同じような物を何度も見ているうちに、それが人に見えて来たってこともあるかも知れませんわよ」
「だけど、あの森で失踪した人がみんな同じような錯覚を起こすものかな?千寛さんが夜にあの森を歩くことはよくあったんですか?」
「ええ。街灯もありますし。街の方とこの住宅街を行き来するには丁度いい近道ですからね。車に乗らない人はだいたいあの公園を通りますよ。ただ、母の場合は迷信のようなことでも信じてしまうところがあるんで。何かが人に見えたと思い込むこともあるかも知れませんね」
「ところで、あの森の公園の工事を請け負ったのは千寛さんの旦那様の会社だったと思うんですけれど」
うっかりカイジンの話で盛り上がってしまうところだったが、スケアリーがここへ来た目的を思い出した。
「はい。父の会社ですよ」
「その時に何かトラブルがあったりしませんでしたか?」
「さあ。特に何もなかったと思いますが。父なら今は事務所にいますが」
千寛の息子がそう言うのを聞いて、スケアリーはこれ以上聞くことはなくなったと思ってそこで切り上げることにした。
ここで何かが解ったのかというと、それほどの収穫はなかったような気もする。しかし早良千寛が失踪前に見たものに『回人』と名付けたことを知って、その名前が印象に残ってしまったエフ・ビー・エルの二人は、彼女はなかなかのネーミングのセンスを持っていると、どうでもいいことをそれぞれ密かに思っていた。