「回人」

20. 朝

 汗ばんだモオルダアがホテルから出てくると、彼はスケアリーの恐ろしい目で睨みつけられた。

「どういうことなんですの?夜明けとともに捜査開始、って言ってませんでした?」

「いやあ、ちょっと遅れたかな…」

一時間はモオルダアにとって「ちょっと」なのかは解らないが、スケアリーはここでモオルダアが寝坊したことに腹を立てていても意味がないと思って、クルマに乗り込んだ。

 モオルダアもその後から遠慮がちにクルマに乗った。

 クルマに乗ると、紅茶の匂いがしていた。どうやらスケアリーはモオルダアを待つ間にここで優雅に朝食をとっていたのだろう。それでモオルダアが一時間以上遅刻してきてもそれほど怒ってないようだ。

 なぜかそんなことの推理だけは捗っていたモオルダアだが、スケアリーから「どこに向かえば良いんですの?」と強めの口調で聞かれて、ハッとして我に返った。

「まずは小堀邸だな。そこでダメなら事件は振り出しに戻ることになる」

モオルダアが言うのを聞いて、アクセルを踏みかけていたスケアリーの足は再びブレーキの方へ戻された。

「ちょいと。それってどういうことなんですの?あの家にそれほど重要なものがあるとは思えませんわよ」

「家ではなくて、もしかするとボクらに問題があったかも知れないんだよ。とにかく行ってみないとね」

スケアリーはモオルダアの言うことがよく理解できなかったが「振り出しに戻る」だけは避けたいと思いながらクルマを発進させた。


 ホテルは街の中心にあって、近くには警察署も守山の入院している病院もある。その他の商店などもだいたいこの辺りにあるようだ。車の中から街を眺めていたモオルダアは小さなスポーツ用品店があるのに気づいた。ショーウィンドウにはランニング用のウェアのポスターが貼ってあった。

「ジョガーか…」

モオルダアがつぶやくとスケアリーは「何なんですの?」と聞き返した。

「ほら、あそこのアレ」

スケアリーはまたイラッとしそうになったが、その前にモオルダアの方がそれでは通じないと気づいてちゃんとした説明を始めた。

「今病院にいる守山って人。あの人が見た回人はジョガーの格好をしていたらしいんだよ。彼らの見た回人が幻覚のようなものだとしたら、彼らの意識と関連したものが見えると思ったんだけど。守山はジョガーなんてあの公園にいるワケないって思ってたみたいだし。昨日会った平野拓野は登山者を見たけど、登山には興味がないって言ってたでしょ。もしかすると回人の姿は見るものの意識が反映されるのではなくて、回人の意識が反映されてるのかも知れないよね」

スケアリーはモオルダアの言うことを理解しようと頑張っていたが「何ですの、それ?」と返すのがやっとだった。

 モオルダアもまだ考えがまとまらないまま話してしまったので、正直なところ、自分でも何を話していたのか解っていなかった。ボンヤリとした回人の姿だけがモオルダアの頭の中に浮かんでは消えていく。

 車の中が変な空気になったまま、二人は小堀邸へと向かった。


 前日と同じように、二人の乗ったクルマは住宅街から少し離れた静かな場所にある小堀邸へ到着した。クルマを降りて玄関の方へ向かっている途中、スケアリーは「何かが変ですわ」と思っていたが、それが何なのかは解らずに、ただ黙って歩いた。しかし玄関のところまでやって来ると、次第にその違和感の正体が明らかになって来た。

「ちょいと、モオルダア。これって…」

「やっぱり、昨日はボクらがどうかしてたんだな」

モオルダアはそう言いながら、玄関の扉のアルミサッシを指でなぞるようにこすってみた。その指先には砂埃の固まりが付いて、そして、アルミサッシの方にはモオルダアが指でなぞった線がクッキリと残っていた。

 昨日は普通の扉に見えたのだが、今この家の扉は長い時間をかけて付着した砂埃のようなものに覆われて、色あせた黄土色に見えている。

「どう見てもここに人が住んでるとは思えないよね」

「そんなことってありえませんわよ。昨日確かにここで小堀様に話を聞いたじゃありませんか」

スケアリーはそう言いながら振り返って辺りの景色を見回して、昨日見たのと同じ景色であることを確認していた。そこは確かに昨日自分たちがいた場所と同じだった。

「ボクらは例のフェロモンのようなものの影響下にあったんだと思うんだよ」

モオルダアの言っているのは、彼が森の公園で意識を失っていたあとに彼から検出されたフェロモンのようなもののことである。スケアリーはどうして自分までそんなものの影響を受けるのか?と考えてみたが、すぐにあの野々山を名乗る女性のことを思い出した。この家に来る前に彼らは警察署の前で彼女に会っていたのだ。

「もしかして、昨日の小堀様との会話は全て幻覚だっておっしゃりたいんですの?もしもあのフェロモンが関係しているとしても、二人が同時に同じ内容の幻覚を見るなんてことはありえませんわ」

「幻覚ではないにしても、ここにはどう考えても小堀かほりは住んでいないよね。もしかすると、ボクらは何かを見て、それを小堀かほりだと思い込んでいたかも知れない」

「それじゃあ、ここに小堀様じゃない誰かがいて、あの話をしていたって言うんですの?興味深い話ですけれど、でも推測だけじゃなんにもなりませんわ」

スケアリーは半信半疑という感じだが、少なくとも目の前にある玄関の扉は長い間開けられたことがないように見えた。だが、本当に誰も住んでいないのかは確認してみないと解らない。彼らは家の裏に回って中の様子が確認できる場所を探すことにした。

 家の脇から裏の方へと回っていくと、ところどころ壁が剥がれていたりしている。そういった事からもここに長い間人が住んでいなかったということが解る。これが昨日モオルダアが「いい家ですね」と評したお屋敷と同じものとは誰も思わないだろう。

 家の周囲は生えるままになった草に覆われていて、モオルダアはまたズボンの裾を汚しながら歩いて行った。玄関から正反対の場所に来ると、雨戸の閉められた縁側があった。その雨戸のうちの一枚が破れていて、ギリギリ人が一人通れそうな隙間が出来ている。

 モオルダアはその隙間から中を覗いてみた。外は明るいが、ほとんどの窓はこの縁側と同じように雨戸が閉められていたり、カーテンがかかっていて中は暗くて良く見えない。この雨戸の隙間から中に入ったら何かの罪になるのか。あるいは捜査中なら大丈夫なのか。モオルダアはいつものようにエフ・ビー・エルという曖昧な組織にどれだけの権限があるのかについて考えて悩ましく思っていたのだが、その時庭の別の場所から声が聞こえてきた。

「あの女!」

と言ったのは、スケアリーのような気もするが。彼女がそんな言い方をするか?とモオルダアは一瞬考えた。しかし、そのすぐ後に「ちょいと、待ちなさい!」という声が聞こえてきて、それはやはりスケアリーの声だと解った。

 ということは「あの女」と言われたのは野々山を名乗る女性に違いない。そう思ってモオルダアはスケアリーを呼び止めようとしたが、彼女はもう屋敷の庭から続いている森の中へ入っていた。


 スケアリーには珍しく靴やスーツの裾が汚れるのも気にせずに森の中を走っていた。やはり彼女は野々山を名乗る女性に対して並々ならぬ嫌悪感を抱いているようだ。

 野々山を名乗る女性はすぐ近くにいるはずなのだが、追いかけ始めてすぐにその姿が見えなくなった。スケアリーはたとえ森に慣れていたとしても、そんなに早く逃げられるワケはないと思って当てずっぽうに追いかけていたのだが、やはり女性の姿は見えてこない。

「ちょいと!あたくし達は武装したエフ・ビー・エル捜査官ですのよ!いるのは解っているんですのよ!すぐに出てきなさい!」

スケアリーが息を弾ませながら大声で言ったが、逃げ出した人がそれで出てくるとは思えない。するとスケアリーの背後からかなり汗ばんだモオルダアがやって来た。

「スケアリー、無駄だよ。ここに彼女はいないよ。少なくとも人間の女性はね」

「それって、どういうことですの?」

聞き返したスケアリーにモオルダアが答えようとしたが、その時に彼らのすぐ近くでカサカサという草をかき分けるような小さな音がした。スケアリーは敏感に反応して音のする方へ向かおうと思ったのだが、すぐにそれが人間の立てた足音にしては小さすぎることに気づいた。

「多分、今の足音の主がキミが追いかけたものの正体だな」

「それって、またフェロモンの影響って言いたいんですの?あたくし達は誰にも会わずに朝一番でここへやって来たんですのよ」

「でも、さっきの動物がそのフェロモンを出していたのなら、それは関係なくなるからね。ただ、今のところそれはどうでも良いかも知れないよ。とにかく昨日ボクらが会った小堀かほりは本物でない可能性が高いから、その辺についてもっと調べたほうが良いように思うんだが」

スケアリーは何かに気づいているようなモオルダアに対して反論したい気もしたが、この家の状況を見て小堀かほりに関しては詳しく調べるべきだとも思ったので、渋々といった表情で頷いた。