「再会」

28. 魂の館

 魂の館とは例の宗教団体の本部であるビルの別名である。「魂の泉」の本部ということで魂の館とは解りやすい感じだが、信者達はみなそう呼んでいたらしい。そのビルの五階にある部屋にモオルダアがやって来ていた。それは昨日、山村刑事と川村刑事がやって来た部屋でもあったが。その部屋にはやはりあの美熟女もいて、モオルダアと応接用の机を挟んで向かい合って座っていた。

 確かにそこにいたのは、あの美熟女のワカイに違いなかったのだが、その容貌はこれまでと明らかに違っていた。世の男性をドキッとさせるようなあの妖艶さはすっかり影をひそめ、年相応というか、もしかするとそれ以上に老け込んでいるような容姿になっていた。

 モオルダアはワカイのその変化に気付いていないわけはなかったが、落ち着いた感じでワカイの方を見ていた。ワカイもこれまでと変わらず、このそれなりに歴史のある教団の幹部らしい落ち着いた態度でモオルダアに接しているようだった。

「それでは、あの聖なる甕を返していただけるのですね」

「そうです」

「そして、あなた自身も最後の時を迎える覚悟が出来たということですね」

「そうです」

こんなやりとりの後に、ワカイの表情にこれまで抑えていた感情が表れそうになって、ワカイは唇の脇を微妙に引き攣らせていた。

「では早速、儀式をはじめましょう。さあ、早く甕を出してください」

「いや、待ってください。その前に聞きたいことがあります」

モオルダアがいうとワカイは少し不快な表情をしたが、この状況では仕方がないということで、黙ってモオルダアの言うことを聞いた。

「謎を残したまま、っていうのも良くないですからね。これまでのこと。ボクの妻のオイタやその周りで起きたことについて知っておかないと」

「よろしいでしょう。何から話しましょうか?全部話していたらキリがありませんよ」

「そうですね。それじゃあ、まずこのカメのことを話してください」

そう言いながら、モオルダアは持っていた大きめのカバンから甕を取り出して自分の前の机の上に置いた。それを見たワカイは一瞬目つきを変えて甕に魅入られたようになっていたが、すぐにモオルダアの方に向き直ると、話を始めた。

「そうですね。全てはこの甕からから始まっていますからね。誰だってこの甕のことを気にするのは当然でしょう」

そう言うとワカイは自分の中で何かを確認するように少し間をおいてからまた話し始めた。

「我々は元から今のような活動をしていたのではありません。おかしな話かも知れませんが、その甕を手に入れるまでの方がよっぽど宗教らしい活動をしていたとも言えますね。あの頃はまだ総師さまもいました。私たちは総師さまの元に集まった信者のうちの一人にすぎなかったのです。そして教えを守り、魂の救済のために活動していましたよ。それがある時、総師さまがどこで手に入れたのか知りませんが、その甕を持って私達の前にやって来たのです。これは魂の救済に重要な物だと言って、少し興奮気味に喜んでいたのを良く覚えていますよ。遠い昔の話ですけどね」

「その昔というのは、その…」

「あなたも解っているでしょう?1875年。明治8年の暮れも迫った時でしたわね。総師さまの言う魂の救済というのがどういうものを意味していたのか、もう知ることは出来ませんが、その甕を手に入れたことによって私達は本当の意味での『魂の救済』の手段を手に入れることが出来たのです」

モオルダアは机の上の甕を見た。ワカイはつい最近のことのように話しているが、それはこの甕が作られたであろう100年以上も前のことだと思うと、どこか時間の喪失といったような不思議な感覚になっていた。ワカイはそのまま先を続けた。

「総師さまはこれから起こる奇跡を目に焼き付けておくようにと私達に言われてから、甕に入れた水を飲み干しました。その後に起きた奇跡というのは、あまりに突飛で私達には何が起きたのか解りませんでした。それにその時総師さまも相当にお年を召されておりましたから。総師さまは水を飲み干すとほどなくもがき苦しみはじめ、そのままお亡くなりになってしまいました」

良く解らない話なのだが、モオルダアは黙って頷きながら聞いていた。

「そして、総師さまが亡くなった代わりに、あなた方が若返ったということですね?」

モオルダアが聞くとワカイは少し微笑んだように見えた。

「まだ気がついてませんでしたが。きっとそうだったのでしょう。その時から甕の力は私達に変化を与えていたのかも知れませんね」

ワカイがここまで話した時、突然部屋の扉が開き、それと同時に女性が喚くような声が聞こえてきた。そして開いたドアからはスケアリーが勢いよく入って来た。その後ろには、このビルに入ると最初に出会うであろうあのうつむき加減の女性が、やはりうつむき加減のまま済まなそうにワカイの方を見ているようだった。

「ちょいとモオルダア!どういうことですの?」

スケアリーは余程慌てていたのか、息を切らしたまま聞いた。

「やあ、早かったねスケアリー。こちらはペケファイル課のスケアリー。スケアリー、この方はこの教団の代表のワカイさん」

落ち着いた感じでワカイを紹介されたスケアリーだったが、何のことだかさっぱりという感じでワカイを見るとワカイは軽く彼女に会釈をした。

「ちょいと、モオルダア。どういうことだか説明してくださらないかしら?一体ここで何が行われようとしているんですの?最後の時って一体何なんですの?」

そう言いながらスケアリーは息苦しくなるような嫌な感覚を覚えていた。それはもちろん急いでここにやって来たからという生理的な現象ではなくて、ここにいるワカイと様子がおかしいモオルダアから受けた精神的な影響のせいに違いなかった。

「説明なら、ワカイさんがしてくれるよ。キミも科学的な視点でこれから起こる現象を見ておいた方が良いと思って呼んだんだけど。間に合って良かったよ。時間はあまりないみたいだからね」

そう言ってモオルダアはまたオイタの方を向いた。

「そのようですね。それではこの方にも甕の起こす奇跡を目撃してもらいましょうか。…それで、どこまで話しましたかね?」

「ええと、総師さまが亡くなった後からです」

何なんですの?と思いながらこの二人の怪しい会話を聞いていたスケアリーだったが、話の間に入っていく余地もなく、話を聞くしかなかった。

「そうでしたね。総師さまの死によって私達はその甕に魂を救う力があることに気付いたのです。或いは総師さまが身をもって教えてくれたと言っても良いかも知れません。とにかく、その場にいた私とオイタそ他の数人でこの教団を引き継ぐことになったのです」

「それじゃあ、町田さんは?」

「フフフ…ッ。あの人は、まだ生まれる前の話ですから」

「ああ、そうか。でも、ボクの推理はだいたい合っていたんだな」

何かを言ってこの話を一度止めるべきだと思ったスケアリーだが、何と言えば良いのか思いつく前にワカイが話し始めてしまった。

「私達は多くの信者を救ってきました。もちろん甕の力を使うのは最終手段ですけど。信者達の生きている望みであり、希望であることが私達の勤め。しかし、時には死によってしか救われない魂もあるのです」

「瓶の水を飲むんですね。それで信者達は苦しむことなく自然に…いや、不自然に寿命を迎えて死んでいくということですね」

ここまで来ると、スケアリーは話に割り込まずにはいられなくなったようだ。

「ちょいと、何なんですの!今の話が本当だとしたら大問題ですのよ。あなた達は信者を殺したも同然ですわ」

「そう言われると思いました。でも信者達はただの水を飲んだに過ぎません。この科学の発展した現代の警察でさえ、怪しいところは一つも無いと言っているんですよ」

「だったら、何だと言うんですの?調べればあなた方を逮捕できる証拠はいくらでも見付かるに違いありませんわ。それに人を殺して、しかもお布施として大金を取ったりしているんじゃありませんの?それから、アレですわよ!モオルダア、あなたはこの人達に騙されて詐欺にあったんじゃありませんの?」

「それとこれとはちょっと事情が違うみたいだけどね」

モオルダアは極めて落ち着いた様子で言った。それを見てスケアリーがギョッとしてしまった。モオルダアはどう考えてもいつものモオルダアではなかった。

「あなたは私達のやっていることを誤解しているようですね。どんな宗教も自殺を認めていませんね。それは私達も同じ。宗教という枠を越えても、それは罪であり罰せられるべき行為かも知れません。しかし、私達は見てきました。幾度にも渡る戦争、大災害。それだけでなく人は時に乗り越えられないような危機に直面して苦しみます。そうやって苦しんでいる人の魂を救い、他の誰かが代わりにこの世に生きる苦しみを受け入れ、それを昇華させることが出来るのなら、それは素晴らしいことだと思いませんか?」

「何を言っているのか解りませんわ!」

スケアリーが言うのももっともである。

「それなら、甕の奇跡をここで見届けるしかありませんね。そうですね、モオルダアさん?」

「そうですね。もしかするとキミも若返るかも知れないよ」

そう言うとモオルダアは不気味に微笑んだ。

「何なんですの、モオルダア。しっかりしてくださいな!」

「モオルダアさんの魂は救いを求めています。それはずっと前から予想されていたことでした。そうです、オイタがF.B.L.へ行ったあの日以来、この日が来ると私は解っていました。モオルダアさんは今日、愛する妻の元へ旅立つのです。甕の力によってまた一つ魂が救われるでしょう。そして彼が生きるべき残りの日々は私に引き継がれるのです。それでは、そろそろ時間がなくなってきましたね」

「そのようですね」

モオルダアは薄暗い表情のまま答えてから立ち上がるワカイの方をチラッとみた。ワカイは部屋の隅にある棚においてあった容器を机のところまでもってきた。その半透明の容器の中には何かの液体が入っていた。

「ちょいと!何なんですの!待ってくださらないかしら?」

スケアリーが慌てて二人を止めようとした。

「これから何が起きるって言うんですの?あたくしはこんなペテンにかかりませんわよ!あなた、どんなトリックを使うのか知りませんが、モオルダアに毒を飲ませて殺すようなことがあれば、あたくしがどんな手段を用いてでもあなたを追い詰めて逮捕いたしますわよ!」

半分パニックになりかけていたスケアリーをよそにワカイとモオルダアは落ち着いていた。

「毒なんか入っていませんよ。これはただの水です。奇跡を行うのは甕の力」

「それに、この甕に何か毒が塗ってあるってこともなさそうだしね。それはボクがちゃんと調べたから保証するよ」

驚いたことに、モオルダアはワカイの肩を持つようなことを言っている。

「モオルダア!あなたどうかしているんですのよ。しっかりしてくださいな!」

スケアリーが言うのもほとんど聞こえていないかのようにワカイは容器の蓋を開けて、中の水を甕に入れようとしていた。もうスケアリーには二人を止めるのは困難だと思えてきた。

「待ちなさい!あなた、その前にその水が毒でないと証明していただけるかしら?」

スケアリーは取り出した銃をワカイに向けて言った。ワカイは少し驚いたようだったが、落ち着いて甕の方にのばしていた両手を引いた。少しあきれたような、或いは苛ついたような表情にも見えたワカイだったが、仕方なくスケアリーの言うことを聞くようだった。

「よろしいですよ。それでは、ここにあるコップにあなたがこの容器の水を注いでくれますか?それを私が飲んだら毒じゃない証拠になりますか?」

「良いですわ!」

スケアリーが容器の水をコップに注ぐと、ワカイは中の水を一気に飲み干した。スケアリーはそれでは物足りないようで、容器の蓋や中のニオイを嗅いだりしていた。

「これで良いですか?もうあまり時間がありません」

「まだですわ!」

スケアリーは言うと今度は甕の方を調べはじめた。こっちでもニオイを嗅いだり、中に何かが塗られていないか手で探ったりしていたようだった。

「それはもう調査済みだけど。正真正銘のただの甕みたいだよ」

モオルダアが言ったがスケアリーはほとんど聞いていなかった。

「良いですわ!それではその奇跡とやらを見せてもらえるかしら?水を飲んで人が死ぬなんて有り得ない事ですけどね」

スケアリーは一歩下がって、ワカイが容器から甕に水を移すのを見ていた。そして、水を入れた甕をモオルダアに渡した。

「さあ、飲んでください。そしてあなたの魂を救うのです」

スケアリーはモオルダアの持ち上げた甕を今すぐにたたき割りたい衝動に駆られていた。しかし、科学的に考えればこのあと何が起きるのかはすぐに解った。水を飲むことによって体内で起こる科学的な現象はいくつかあるので、科学的でなくその現象を説明するのなら「何も起きない」ということになる。常識で考えても水を飲んで人が死ぬわけはないのだ。そう、常識で考えれば。

 しかし、スケアリーにはどこか心に引っ掛かるものがあった。これまで何度もモオルダアには常識が通用しないことがあったり、それにこのワケの解らない教団の存在や、今回の事件のこれまでの経過など、様々なことが一度に頭の中を駆け巡る感じがした。

「モオルダア…」

不安なのか恐れなのか、或いは怒りかも知れなかったが、スケアリーが絞り出すような声を出した。モオルダアには聞こえたのか解らなかったが、彼は甕の水を飲み始めていた。

「ちょいと、モオルダア!」

スケアリーはなんと言って良いのか解らなくなって、とにかくモオルダアの名前を呼んでいた。ワカイは冷たい目でスケアリーのことを一度見ると、またモオルダアの方へ視線を戻した。視線の先にいるモオルダアはどうやら甕の水を飲み干したようだった。

「あとは終わりの時を待つだけですね」

ワカイが微笑みながら言った。

「あとは終わりの時を待つだけですね」

同じことをモオルダアが不気味な微笑みと共にワカイに返した。

「ちょいと…、何なんですの…?」

スケアリーは半分泣きそうになりながら二人を見つめていた。